林田隠岐守は千々石を守りたい
肥前国に進出した林田氏は高来郡千々石の領主になった。千々石は島原半島の北西の付け根に位置し、橘湾に面している。この一族は林田隠岐守を名乗った。
林田氏が千々石の領主になった由来には不思議な伝承がある。没落した林田氏の中に親孝行な息子がいた。ある日、父親が病気になった。医者に見せても治らなかった。そこで、その子は薬を買うために家を出た。しかし、いくら探しても薬はなかった。途方に暮れた子は山へ行って栗の実を採ったり木の葉を集めたりした。
すると、いつの間にか日もとっぷりと暮れていた。急いで帰ろうとしたとき、ふいに強い風が吹いて来て子の持っていた栗や木の葉は吹き散らされてしまった。子が困っていると、どこからともなく一匹の大きな白蛇が現れた。そして、こう言った。
「わしはこのあたりの守り神である。おまえの家のあるじはどんな男であるか」
子に答えるいとまもなかった。たちまちのうちに白蛇の姿は消えてなくなった。見ると、そこには大きな屋敷があった。子は屋敷の主となり、近隣の領主になった。
「父祖代々の領地を失っているのだから、これ以上失うことはできない」
ここから林田氏は一所懸命の精神で千々石の領地を守り抜いた。
朝廷では文保二年(一三一八年)に花園天皇の譲位を受けて後醍醐天皇が践祚した。践祚当初は後宇多院の院政下にあった。元亨元年(一三二一年)一二月九日に後宇多法皇の院政が停止し、後醍醐が親政を開始した。後醍醐は記録所を再興し、新関を廃止した。建武の新政では内裏造営や増税で民を苦しめるが、この時点では関所の廃止という民の負担をなくす政治を行っている。
この時期の後醍醐の親政は善政と評価されている。「貧民救済策が実を結び、それまで横行していた盗賊、強盗の類が影を潜めた。また、この民生の安定化に加え、商業活動も活発化し出した」(吉川佐賢『楠木正成 夢の花 上』叢文社、2005年、131頁)
後醍醐は天皇親政の理想に邁進した個性的な天皇というイメージがある。鎌倉幕府を倒し、南北朝の動乱の時代を創った。しかし、鎌倉幕府の滅亡や南北朝の動乱は貨幣経済の発達など社会経済の変化が大きく、御醍醐個人を過大評価できない。
後醍醐天皇は即位当初から倒幕の意思を抱いていたが、その動機は世の中を良くするというものではなく、自分の子孫に皇位を伝えたいというものであった。当時の天皇家は持明院統と大覚寺統に分裂し、幕府の仲裁によって交代で天皇になることになっていた。自分の子孫を天皇にするためには幕府を倒す必要があった。
「自分の皇子を早く即位させるには、倒幕が究極的な解決法なのである。幕府が消滅すれば屈辱的な妥協に産物である文保の和談など、吹き飛ぶのであるから」(美川圭『公卿会議 論戦する宮廷貴族たち』中公新書、2018年、210頁)
「皇位を我が子に継承させたいという個人的な動機に発した御醍醐の計画であった」(石原比伊呂『北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』中公新書、2020年、40頁)
「後醍醐が自らの子孫に皇統を伝えるには、両統迭立を原則として皇位を左右する幕府を倒すことが必要であった」(西田友広「南北朝の内乱」高橋典幸編『中世史講義【戦乱編】』ちくま新書、2020年、91頁)
「後醍醐天皇が倒幕を企てた目的のひとつは、幕府の干渉を排して大覚寺統で皇統を独占することだった」(安部龍太郎『蝦夷太平記 十三の海鳴り』集英社、2019年、427頁)
後醍醐は幕府が皇位を決めている状況が許せなかった。
「神武天皇以来のことを聞くに、下の者が天下の位を定めるなどとは聞いたことが無い」(吉川佐賢『楠木正成 夢の花 上』叢文社、2005年、130頁)
吉田定房は後醍醐に諫言した。
「天皇や皇太子の進退も大臣や将軍の任官も全て幕府が決めています。このような状態で幕府を倒そうとしても世の中の支持を得られなければ、すぐに朝廷は敗北し、皇統が絶えてしまうでしょう」




