鎌倉幕府は庶子独立を進めたい
鎌倉幕府は永仁元年(一二九三年)に鎮西探題を設置し、北条兼時と名越時家を派遣した。鎮西探題は六波羅探題と同じく北条一門が就任した。九州の御家人達は京の六波羅探題まで行かなくても裁判を受けられるようになった。しかし、九州の武士達にとっては北条氏に支配されているという不満を抱かせることにもなった。そこで鎮西探題は在地の有力御家人を鎮西評定衆や引付衆に任命し、裁判機関として充実させた。
北条政顕が正安三年(一三〇一年)から鎮西探題に就任する。父親の北条実政から二代続けての探題である。世襲はマイナスイメージがあるが、官僚的な人物よりは実情を理解している。
政顕は異国警固番役の強化を検討した。異国警固番役は九州の御家人に課された軍役で、文永の役が起こる前の文永八年(一二七一年)から始まった。異国警固番役は守護に従い、一定期間、博多湾など蒙古襲来が危険視される沿岸を警備する。
異国警固番役を課された御家人は手弁当で警固しなければならない。異国警固番役には鎌倉大番役や京都大番役が免除されたが、鎌倉大番役や京都大番役には幕府や朝廷の有力者に接近するメリットがあったが、異国警固番役は負担だけが大きいものであった。このため、御家人の鎌倉幕府への不満は高まった。
有力な御家人は数多くの分家を統率する惣領であった。御家人と鎌倉殿の御恩と奉公の関係は惣領を通じて成立していた。例えば、奥州合戦で大串重親が藤原国衡の首級を挙げた際、その首級は烏帽子親である畠山重忠に渡された。これは戦功も惣領を通じて評価されることを示している。
一方で惣領の不公正な扱いに不満を抱き、独立心を有する庶子(惣領以外の子)も存在した。『蒙古襲来絵詞』で著名な竹崎季長も、その一人である。季長は菊池氏の一族であったが、一族の所領争いに敗れて没落し、僅か主従五騎の独立した武士団として参陣した。季長は文永の役では鳥飼潟で先駆けした。弘安の役では志賀島の戦いや御厨海上合戦で敵の軍船に斬り込んだ。
「小規模な武士団を活躍させるため、庶子を惣領の指揮から解放し、異国警固番役への独立勤務を認めよう」
このように考えて政顕は正和元年(一三一二年)の鎮西下知状に「庶子惣領相並ぶべし」と記した。鎮西下知状は鎮西探題が御家人に対して発行した文書である。これは鎌倉幕府による「庶子の独立推進立法」と評価された(佐藤進一『日本の中世国家』岩波文庫、2020年、172頁)。
鎌倉時代は分割相続が基本的な制度として確立していたが、惣領の権限は非常に強力であった。この点で、現代の日本国憲法が保障する個人の平等とは異なっていた。しかし、鎌倉幕府は元寇という未曽有の国難に直面すると、従来の惣領を通じた武士団の指揮体制に限界を感じ、改革を志向した。それが「庶子惣領相並ぶべし」である。歴史を単純化すると鎌倉時代後期から分割相続が長子単独相続に変わっていったと説明されるが、分割相続を促進するベクトルも存在した。
一方で庶子独立推進は中途半端なものであった。
「鎌倉末の「鎌倉幕府による庶子独立奨励策」は異国警固審役確保のため施行した現実即応の政策であり、一応緊急事態を脱した後においては、庶子支配強化を意図する惣領の立場を支持する政策に復帰した」(瀬野精一郎「鎌倉幕府滅亡の歴史的前提 鎮西探題裁許状の分析」史淵、九州大学文学部、1958年、102頁)
中途半端な鎌倉幕府への不満は蓄積し、鎌倉幕府滅亡につながっていくことになる。




