林田泰國は弘安の役を戦いたい
元は弘安四年(一二八一年)に再度の日本侵攻を行った。弘安の役である。元は東路軍の兵四万人、軍船九〇〇艘、江南軍の兵一〇万人、軍船三五〇〇艘の二手に分かれて攻めよせた。元軍は日本占領後の移住を想定し、鋤鍬などの農具や種もみも携行した。南宋の農民から肥沃な土地を奪って、代わりに日本に移住させようとしていた。
江南軍の出発が遅れ、先に東路軍が攻撃した。日本軍は果敢に抵抗した。林田泰國も防戦に参加した。防塁が役に立ち、元軍の上陸を阻止した。日本軍は元の軍船に夜襲を仕掛け、大きな損害を与えた。ようやく東路軍と江南軍が合流し、後世に転換しようとしたところに台風が襲った。暴風雨の被害も受け、多くの軍船が沈み、兵士が溺死した。壊滅的打撃を受け、元軍は撤退を余儀なくされた。
元軍も一枚岩ではなかった。文永の役の後に金方慶は虚偽告訴の冤罪で投獄される。高麗の忠烈王が金方慶の無罪を主張したため、名誉回復して復権した。冤罪被害者が復権できるところは、袴田事件で検察が有罪立証に固執する日本よりも進歩的である。
弘安の役では冤罪被害者の金方慶と冤罪を作った側の洪茶丘が共に将軍となった。
「洪茶丘は金方慶をクビライに対する謀反の心ありと告発して投獄の憂き目に遭わせているのだ。忠烈王の弁護によって金方慶の無実が明らかとなり、短期間で釈放されたものの、金方慶の洪茶丘への恨みは相当なものがあるに違いない。その二人をまた副将に据えるクビライの思惑がそもそも不思議である」(高橋克彦『時宗 巻の四 戦星』日本放送出版協会、2001年、299頁以下)
足並みが揃わないことも当然である。
高麗は虚偽告訴による冤罪が相次いだ。ここから民族性の批判まで展開する見解がある。「朝鮮半島の人たちというのは、いつの時代も人間関係に対等な横の関係などはなく、上か下かの関係があるだけです。そのときどきの強い勢力に付いて、それを後ろ盾にして「俺のほうが上だ」と争うのです」(196頁)。しかし、これは公務員的な日本型組織の実態そのものである。
鎌倉幕府は二度の元寇を経て九州に鎮西探題を設置し、六波羅探題と同じく、北条一門を派遣した。九州の御家人達は京の六波羅探題まで行かなくても裁判を受けられるようになった。しかし、九州の武士達にとって北条氏に支配されているという不満を抱かせることにもなった。
元寇はモンゴル軍の襲来と意識されているが、元は多民族国家であり、モンゴル人支配者は各民族に委ねるところも多く、モンゴル人が主体とは必ずしもも言えない。元の日本遠征はフビライが指示したものであることが確かであるが、皇帝自身が進めた事業ではなかった。征東行省などの役所を作り、その役所に担当させた。征東行省などの担当者は日本の官僚と同じように役人の論理で動いていた。
「自分たちの仕事として日本征討を行って功績をあげれば、自分たちの取り分が多くなり、役所も大きくなって、自分たちの地位も上がる」(宮脇淳子『世界史のなかの蒙古襲来 モンゴルから見た高麗と日本』扶桑社、2019年、222頁)
これは元寇が失敗した重要な理由になる。お役所仕事は一所懸命の武士に敵わない。このように考えれば日本人は元寇の歴史を大いに誇って良いだろう。




