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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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林田泰國は文永の役を戦いたい

元軍は文永一一年(一二七四年)に日本に襲来し、文永の役が起きた。元軍は軍船九百艘、兵士約三万人、水夫約四万人の兵力である。蒙古と高麗の混成部隊であった。日本全国を占領するには少ない兵力である。

元軍の考えについては諸説ある。第一に威力偵察とする。文永の役では元軍はすぐに撤退するが、敗北したから撤退ではなく、最初から早期撤退する予定であったことになる。

第二に日本を実際よりも小さい島国として容易に全土を占領できると考えていたとする。遠くヨーロッパまで騎馬で制圧したモンゴル帝国の感覚では実際に日本は小さいだろう。

これは豊臣秀吉の唐入りの失敗理由に重なる。秀吉は朝鮮や明国よりも実際より狭いと誤って考えていた。特に北京は海沿いにあり、海岸から上陸して占領が容易と考えていた。

第三に元軍は日本を事前に偵察した結果、日本に城塞都市がないことを確認しており、日本を侮っていた。日本は城塞都市が発達しなかった。中国でもヨーロッパでも都市は城壁で囲むことが通常である。ところが、日本は博多や京のような大都市にも城壁はなかった。これは元軍が日本の占領は容易と考える理由になる。

珍説として北条氏に滅ぼされた比企氏の末裔が高麗を経て元に行き、日本侵攻を持ち掛けたとする説がある。亡命政権の帰還のようなものであり、少ない兵力でも緒戦で勝利すれば現地の武士達が馳せ参じるとの計算があったとする。


元軍は日本全土を占領する上では少ない兵力であったが、日本の一地域を攻撃する上では圧倒的な兵力であった。元軍は最初に対馬国に上陸した。対馬の子供を含めた男女二百人が捕虜として拉致されてしまった。さらに元軍は壱岐国に侵攻した。ここでも男女関係なく襲われ、日本兵千人が討ち取られた。


その後に肥前沿岸を侵攻した。蒙古は肥前の松浦郡に上陸し、松浦党が迎撃する。しかし、蒙古の軍勢が圧倒し、松浦党のほとんどが討たれ、あるいは捕虜となり、建物も壊滅した。これら侵攻の報が大宰府を通して各地に伝わり、九州の武士達が博多に集結した。


林田泰國も参陣した。林田は若い頃から武術に精通し、戦場での勇敢さと知略で名を馳せていた。博多では多くの武将たちが訓練を行っていた。彼らは林田を見るなり、敬意を示し、彼が強力な戦力となることを期待していた。


遂に元軍は博多湾に上陸し、赤坂山を拠点とした。後に黒田長政が赤坂山に福岡城を築城するように赤坂山は戦略上重要な拠点となる場所であった。日本軍は博多の街と筥崎宮の防衛に兵を集中させており、あっさり赤坂山を占領されてしまった。


これは評価が分かれる。第一に日本軍の失策とする。日本側は赤坂山の重要性を見落とし、みすみす占領を許した。

第二に元軍に占領されることは日本軍の想定の範囲内だったとする。赤坂山は防衛拠点としては優れていても、元軍が得意とする騎馬には不向きな場所であった。元軍が赤坂山に陣を張れば戦闘が有利になると考えていた。


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