三浦光村は宝治合戦を戦いたい
鎌倉幕府では執権北条時頼の時に北条氏と三浦氏の対立が深まり、宝治元年(一二四七年)に宝治合戦が起きた。ここには複数の対立軸があった。第一に鎌倉幕府の主導権争いである。執権北条氏を中心とするか、征夷大将軍を中心とするかの対立である。将軍は摂関家から北条氏の傀儡として迎え入れられたが、成長するにつれて自分の意見を持つようになる。また、将軍の近臣らが主導権をとろうとする。このために執権北条氏と対立した。
第二に三浦氏と安達氏の執権北条氏の外戚の立場争いである。安達氏は北条氏の外戚の立場を独占したいために三浦氏を排除しようとした。安達氏の祖の藤九郎盛長は伊豆国に流罪となった源頼朝の従者であった。頼朝以前から三浦半島に勢力を築いていた三浦氏と異なり、鎌倉幕府があって始めて成長した御家人である。安達の名字も奥州合戦で陸奥国安達郡を領して本貫としたことに由来する。
三浦氏は惣領の三浦泰村と弟の三浦光村に温度差があった。泰村は第二の立場である。北条氏と協調してやっていこうという考えであった。これに対して光村は第一の立場であった。光村は将軍・九条頼経の近習になり、将軍への忠誠心を持っていた。第一の立場と第二の立場では北条氏を打倒するか否かが異なる。このために三浦氏の方針がどっちつかずとなり、揺れ動いて後手を取ることになった。
三浦光村は将軍九条頼経の側近として仕え、鎌倉幕府評定衆の有力御家人であった。父親の三浦義村が陰謀を楽しんでいるような人物であり、承久の乱では上皇方になった実弟の三浦胤義を躊躇なく滅ぼした。将軍への忠誠心を持った光村は父親の義村よりも胤義に近いメンタリティがある。
三浦光村は讃岐国の守護であった。光村自身は鎌倉におり、讃岐には長雄二郎左衛門胤景を守護代として派遣した。胤景は讃岐国林田郷に拠点を置き、林田守護代と称した。真言宗の僧侶の道範が大伝法院焼き討ちの責任を問われて林田守護代のところに配流されたことがある。
北条時頼は戦を防ごうとした。三浦泰村の屋敷に単身乗り込んだ。しかし、結局、退去したことで三浦氏に不信感を抱かれた。「時頼の西御門滞在は、状況の悪化をもたらしただけの結果となってしまっていた」(細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新聞出版、2022年、229頁)。
単身乗り込むことは勇敢であるが、密室で話しても上手くいかない。三浦光村や安達景盛ら各々の陣営内にも様々な思惑があり、全関係者にオープンな場で進めないと納得は得られない。逆に疎外感を持つ関係者もいるだろう。結局、安達氏の暴走によって宝治合戦の戦端が開かれる。
宝治合戦で三浦光村は永福寺に籠城しようとした。永福寺は建設時に畠山重忠が大石を運んだことで知られている。永福寺は防御拠点として優れているだけでなく、北条氏の他氏排斥の冤罪で滅ぼされた重忠ゆかりの場所という点で籠城する上で相応しい。
しかし、三浦泰村が弱腰であった。光村は永福寺を放棄して三浦氏は滅亡した。歴史のIFを考えるならば、泰村が毅然と戦っていれば三浦氏が勝者になれたかもしれない。とはいえ北条義時と三浦義村の蜜月関係を振り返れば、北条氏と協調したかったという思いがあるだろう。許せないものは安達氏の讒言による冤罪となる。その安達氏も霜月騒動では北条氏に滅ぼされる。
宝治合戦の後は北条重時が讃岐守護になる。重時は義時と姫の前の次男で、極楽寺流の祖である。長男の朝時の名越流と異なり、極楽寺流は得宗家に忠実であった。それまで重時は六波羅探題であったが、宝治合戦後に鎌倉に戻り、連署に就任し、執権北条時頼を補佐した。このため、讃岐守護は西国から離れた後であり、現地には疎い。その後の讃岐守護は北条一門が就任した。




