伊賀の方は伊賀氏の変の冤罪を訴えたい
北条義時は貞応三年(一二二四年)に急死する。病死説、後妻の伊賀の方による毒殺説、家臣による刺殺説がある。義時の死後に伊賀氏の変が起きる。伊賀の方が実子の北条政村を執権とし、兄の伊賀光宗に後見させ、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようとしたとする。伊賀の方が伊豆国北条郡、光宗が信濃国、実雅が越前国に配流された。
政村は無罪とされた。北条氏は他氏を容赦なく滅ぼす。冤罪で滅ぼされた畠山重忠のように娘婿の一族にも容赦ない。しかし、北条氏の男子には寛大である。政村は後に得宗家の北条時宗を支えることになる。一族の結束は強い。
伊賀氏の変は謀反が実在したする説と冤罪であったとする説がある。伊賀の方は義時の正妻であり、源頼朝没後の尼将軍政子が将軍家の家長となったことと同様に北条家の家長という立場であった。それ故に伊賀の方が北条家を仕切ることは当然のことであった。ところが、それを認めたくない政子が謀反の冤罪をでっち上げたとする。伊賀の方を冤罪と考える人々は政子の死を伊賀の方の祟りと噂した。
北条泰時は冤罪に加担したとする説と冤罪を阻止しようとしたとする説がある。冤罪加担説は継母の伊賀の方と元々折り合いが悪く、政子と連携したとする。冤罪阻止説は政子の暴走を押しとどめようとしたとする。政村の無罪は泰時が擁護した結果となる。
伊賀氏の変では三浦義村の暗躍が指摘される。義村は政村の烏帽子親であった。政村の「村」は義村に由来する。義村は土壇場で北条氏側に裏切った。これは和田合戦や承久の乱と同じである。源実朝暗殺の義村黒幕説では、伊賀氏の変も義村が黒幕になる。伊賀氏の変の冤罪説でも義村が政子に伊賀氏の謀叛をでっち上げて告発したとなる。
義時の次の執権は長男の北条泰時である。厳密には執権は二人体制で、義時の弟の北条時房がもう一人の執権であった。二人の執権のため、両執権と呼ばれた。両執権と言っても正副の関係があり、泰時が正、時房が副である。副の執権は後の時代には連署と呼ばれる。
泰時は嘉禄元年(一二二五年)に評定衆を設置した。設置時の評定衆は一一人である。評定衆は執権が主宰した。評定衆と二人の執権を合わせると丁度一三人になる。源頼家の時に十三人の合議制が成立したが、この合議制は早期に崩壊した。鎌倉幕府の合議制は評定衆で結実した。
合議制は独裁制よりも評価されることが多い。しかし、ただ集まって話し合えばよい結論が出る訳ではない。まとまらないことも多い。泰時は貞永元年(一二三二年)に御成敗式目(貞永式目)を制定することで、この問題に解決策を出した。これを判断の基準にすることで合議制をまとめた。
泰時は寛喜二年(一二三〇年)に第四代将軍藤原頼経と竹御所鞠子の婚姻を進めた。竹御所は源頼家の長女であり、頼朝の直系の血筋を継承する最後の人物であった。頼経は一三歳、竹御所は二九歳と年齢は不似合いな政略結婚であった。源氏直系の竹御所と結婚することで、摂家将軍の正統性を持たせようとした。
竹御所は御家人達の精神的支柱になった。その内実は様々な描かれ方がある。
第一に北条政子の後継者としてのカリスマ性を備えた人物であった(葉室麟『実朝の首』角川書店、2010年)。
第二に執権北条氏に私的な幸福を奪われ、利用された悲劇の存在であった(杉本苑子『竹ノ御所鞠子』中央公論社、1992年)。




