岸本遠綱は冤罪をなくしたい
元暦二年(一一八五年)七月九日に京を大地震が襲った。岸本遠綱は、その地震の後、夢の中で赤衣の人物から重要な言葉を受け取った。
「平家とは無関係な人々が、平家の関係者と扱われ、冤罪によって配流されている。この地震は、その冤罪を晴らすために起きた」
岸本遠綱は夢の内容を人々と共有し、その言葉は次第に広まっていった。地震を奇妙な巡り合わせと考える者もいれば、岸本遠綱の夢の話に共感する者もいた。
この話は遠く鎌倉の源頼朝の耳にも届きました。頼朝はこの免罪の訴えに真剣に耳を傾け、事件の真相を究明することを決意した。頼朝は朝廷に対し、冤罪で配流されている者達の救済を求める要請を送った。頼朝は大地震がその要請のきっかけとなったことを指摘し、正義と公平さを追求するために行動する決意を示した。朝廷は調査を命じた。その結果、朝廷は冤罪の存在を認識し、その問題解決のために行動を起こすことを決断した。そして、岸本遠綱の訴えを真摯に受け止め、冤罪被害者の救済に尽力することを決めた。
朝廷は八月一四日に新たな時代の幕開けを宣言した。新しい元号「文治」が制定され、冤罪の解消と公正な社会の構築を目指すと宣言した。
頼朝と対立した義経は京で自立を目指した。しかし、義経配下に組み込まれた西国の武士達は、そこまで義経に義理はない。反平氏でまとまっていたに過ぎない。義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を受け、大義名分を得た。しかし、それは後白河法皇を半ば強要して出させたものであり、木曽義仲と同レベルのものであった。義経に馳せ参じる武士は少なかった。遠綱も義経に味方しなかった。
頼朝は文治元年(一一八五年)に守護・地頭の設置を朝廷に認めさせた。定綱は近江国守護になる。定綱は有力御家人として近江国で勢力を拡大していく。遠綱は定綱の被官に近い存在になった。鎌倉時代後期から顕著になった守護による国人被官化の先駆である。
「かつては守護が国人を積極的に家臣に編成して自らの王国を築き上げるという「守護領国制論」が通説であったが、近年の学会では国人の側が主体的に守護などの有力者と主従関係を取り結ぶという理解が一般的である。平たく言えば「家臣が主君を選ぶ」のである」(呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』中公新書、2016年、227頁)
領主にとって被官化は独立性を失うことになり、好んで行うものではない。現地に縁もゆかりもない東国武士が遠国の守護になったことと異なり、佐々木氏は元々、近江国に地盤があった。このために勢力の拡大をしやすい立場であった。
一方で近江国の領主であったということは近江国の武士達からすれば同輩であった。その下に立たされることの反感が出るかもしれない。それでも落下傘の余所者よりはましだろう。
加えて近江国には比叡山延暦寺という問題があった。延暦寺は強大な荘園領主であり、無理難題を押し付ける存在であった。延暦寺に鎌倉殿御家人の権威で対抗したいという動機があった。しかし、それには限界があり、建久二年の強訴で露呈した。