公暁は還俗したい
公暁は実朝の首を斬り、自分が持ち去った。公暁は自分が実朝を殺害すれば、三浦義村が自分を将軍に擁立すると考えていた。そこで義村に自分を迎えるように求めた。ところが、義村は刺客を差し向け、公暁は義村の郎党に殺された。
公暁は殺害された時には実朝の首を持っていなかった。公暁の首は八幡宮の裏山の雪中に埋められていた。義村の家臣が拾い上げたが、その家臣は陰謀か体質の義村に反発しており、首を持って逐電した。義村と対立していた相模国西部の波多野氏の所領に運んで埋葬した。
三浦義村と波多野忠綱は和田合戦の先陣争いで遺恨があった。忠綱と義村は自分が和田合戦の先陣であったと主張した。義時は内々に忠綱に圧力をかけてきた。
「和田合戦は義村が和田義盛を裏切ってくれたために勝利した。義村に先陣を譲ってくれれば、別の面で埋め合わせする」
これに対して忠綱は嘘をつけないと正論で答えた。
「弓馬に携わる者として利益のために先陣の名誉を損なうことはできない」
証言から忠綱が先陣と認められたが、忠綱を義村の悪口を言ったとして罰されるという政治的な決着がなされた。
公暁による源実朝暗殺は北条政子にとって孫が息子を殺すという悲劇である。公暁も暗殺者として誅殺されたため、政子は息子と孫を同時に失うことになった。そこにはどうしようもないすれ違いがある。
政子は公暁を鶴岡八幡宮別当にした。鶴岡八幡宮別当は鎌倉宗教界のトップである。人が羨む高い地位である。これが父親の頼家を殺した罪滅ぼしのつもりであったが、公暁にとってはピント外れになる。
出家者は世を捨てる人という建前である。公暁の出家は頼家の後継者という公暁の存在を社会的に抹殺する意味がある。出家の状態をそのままにしながら、報いたつもりでいることは虫が良い。報いるならば還俗を認めて一門として遇し、複数の知行国を任せるくらいしなければ納得しないだろう。
出家者が全て世を捨てるものではない。平清盛や後白河法皇の例がある。後白河法皇の側近の信西は家柄が低くて俗人のままでは出世できないとして出家している。ここでは逆に政治権力の中枢に進むために出家が利用された。公暁も出家者の状態で幕政に関わることはできただろう。
昭和の前向きな精神論根性論者は「出家を強制されたということで人生を絶望するのではなく、出家の中でやりたいことを追求すればいいではないか」と言いそうである。しかし、公暁の場合は父親が抹殺され、自分も鎌倉殿の後継者としての地位を抹殺するために出家させられたものである。出家を前向きに捉えることができないし、最も嫌なものが出家になる。そこを理解しなければ公暁と政子や実朝の歩み寄りは成立しないだろう。
逆に政子や実朝の側からすると公暁が出家者であることが前提条件になる。出家者ならば、どれだけ領地を持ち、政治的発言権を持ったとしても、鎌倉殿の地位を脅かさない。出家者であることを前提とすれば公暁の要望に応えるつもりがあったかもしれない。
しかし、公暁にとって出家が最も我慢できないことである。その上、「出家さえ我慢したら、要望を認める」という相互主義が提示されておらず、一方的に我慢させられるだけのように見える。ここにすれ違いがある。




