源平の合戦
源頼朝は源範頼の軍勢に平氏討伐を行わせた。義経には京の治安維持を担当させた。範頼の進展は乏しかった。兵糧不足と平氏の水軍の抵抗に苦しめられた。
「鎌倉に帰りたい」
侍所別当の和田義盛までが言い出した。
しかし、頼朝は平氏討伐が難航することを織り込み済みであった。頼朝は戦後の後白河法皇との交渉材料にするために安徳天皇と神器を押さえることを優先課題にしていた。そのために範頼は無理な攻撃をせず、長期戦を考えていた。
これに対して朝廷は元暦二年(一一八五年)正月十日に義経の出陣を決定した。この背景は諸説ある。
第一に範頼の苦戦を見た義経が後白河法皇に平氏追討を願い出たとする。
第二に朝廷が不安になって決定したとする。朝廷は頼朝以上に範頼の苦戦を深刻に考えていた。
「範頼が引き返せば、西国の武士達は平家に属したままになり、大事になるだろう」
何しろ平家には安徳天皇と三種の神器がある。正統性は京の後鳥羽天皇よりも上である。
第三に頼朝の方針転換を受けたものとする。範頼の苦戦を踏まえ、頼朝は九州を範頼、四国を義経の分担とし、範頼の負担を減らそうとした。
義経は西国の武士を編成した。この軍勢には遠綱も組み込まれた。義経は二月に暴風雨の中を船で出撃し、屋島を急襲する。海上からの攻撃に強い屋島であったが、義経は阿波国勝浦に上陸して、陸から屋島を攻撃した。義経は白鳥の神に祈ったところ空から白羽が舞い降りてきて義経の手中に収まった。これに奮起して奇襲をかけた。義経は山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた。平氏は奇襲に慌てて船で沖合に避難し、屋島の占領を許してしまった。
平氏の軍船は屋島を捨てて讃岐国志度に立て籠もった。義経は追撃し、平家の家人の田口成直は降伏した。平氏は四国の拠点を失い、彦島に落ち延びた。林田郷など讃岐国の武士達は源氏に従った。
敗走した平氏は彦島に退いた。九州は範頼が押さえており、後がない状態である。元暦二年三月二四日(一一八五年四月二五日)の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した。安徳天皇は海中に身を投じて崩御し、三種の神器の一つの天叢雲剣も海中に沈んだ。
平家滅亡後に頼朝と義経は対立する。その理由は幾つかある。
第一に義経が平家を滅ぼすことを優先し、強引な攻撃によって安徳天皇と天叢雲剣を得られなかったことである。これは朝廷交渉という頼朝の計画を破壊するものであった。
第二に義経の軍功の大きさ自体である。義経が西国の武士を組織化して軍勢としたことも頼朝の脅威であった。これは恩賞を求めて出陣した東国武士達の戦功の機会を奪うことになった。
第三に頼朝に無断で朝廷の官位をもらったことである。
第四に頼朝の弟という地位に対するギャップである。「義経は「御門葉」意識が強く、頼朝を頂点とする新たな武家社会の統括の方向を十分に理解していなかったと思われる」(森公章『武者から武士へ 兵乱が生んだ新社会集団』吉川弘文館、2022年、258頁)。