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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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和田合戦

建暦三年(一二一三年)二月に泉親衡の乱が起こる。信濃国の御家人の親衡が二代将軍・源頼家の遺児を擁して反北条の挙兵をしようとした。実際に挙兵する前に計画が露見し、親衡は一戦交えた後、逐電して行方知れずになった。反乱未遂事件であるが、これが和田合戦の導火線になった。一味の中に侍所別当の和田義盛の子和田義直と和田義重、甥の和田胤長が含まれていた。これが北条義時に攻撃材料を与えた。


泉親衡の乱自体は和田一族が参加するほど根深いものでありながら、謎に包まれている。親衡はメジャーな存在ではなく、大規模な反乱を首謀するような存在であったか疑問視される。このため、反乱の主導者や支持基盤が他にあったとする様々な見解がある。

第一に和田一族が主導した反乱であり、露見したために親衡を首謀者としたとする。これが正しいならば、義時が義盛を敵視したことは正しいことになる。

第二に逆に義時が義盛を攻撃するためにでっち上げた冤罪とする。謀反が露見すると、親衡は逐電して行方知れずになった。親衡が怪力無双の武者だったためとされるが、冤罪説は幕府が真面目に捜索していないためとなる。

第三に北条氏に滅ぼされた比企氏や平賀氏の残党が主導したとする。親衡は信濃国の御家人であるが、信濃国は比企氏の勢力が強かった。平賀氏は信濃国平賀郷発祥である。牧氏事件で滅ぼされた平賀朝雅は比企氏が滅ぼされた比企能員の変では北条側であった。朝雅の母は比企尼の娘であり、比企氏と平賀氏は関係が深かった。反北条で結束することは容易である。

第四に朝廷の陰謀説である。京都の祇園祭の長刀鉾は和泉小次郎親衡(泉親衡)の人形を飾っており、親衡は京都と縁がある。一方で後鳥羽上皇は源実朝に期待しており、実朝を排除するこの時点では鎌倉幕府に陰謀を企てる必然性がないと批判される。


実朝は義盛の頼みを受けて義盛の子の義直と義重は許した。しかし、義時は和田胤長を首謀者に近い立場として罪を許さず、三月一七日に陸奥国岩瀬郡に流罪とした。三月二一日には胤長の娘が亡くなってしまう。義時は挑発に挑発を重ねて、義盛を謀反に追い込んだ。


義盛は将軍御所を攻め、実朝の身柄を獲得しようとした。将軍という錦の御旗を得ることで自らを官軍とする作戦である。和田合戦は将軍実朝という錦の御旗をどちらが得るかの戦いであった。

和田合戦の前の北条氏の他氏排斥である畠山重忠の乱では、重忠は自己の武力で抗った。重忠は自己の武力で抗い、重忠よりも単純そうな義盛が錦の御旗獲得という政治的な動きをした。義盛は畠山重忠の乱で学習したのだろうか。


和田合戦は北条方が勝利し、和田一族は滅ぼされた。義時は頼盛の侍所別当のポストを奪った。これによって執権が政所と侍所の別当を兼ねることになる。侍所の所司は義時の家人が就任した。義時の家人は鎌倉殿から見れば陪臣に過ぎない。それが御家人を指図する立場になった。


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