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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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牧氏事件

畠山重忠の乱の後は牧氏事件が起きる。重忠を冤罪で死に追いやったことで、時政の評判は失墜した。このため、時政を無視して、政子宛の訴えが増えるようになる。時政は賄賂をもらって裁判を捻じ曲げていた。典型的な腐敗・汚職である。本人が不公正なコネ政治に罪悪感を抱いていないことが絶望的である。


北条政範の死は北条家の跡目争いも生じさせた。義時からすれば政範の生前から自分が継承してもおかしくはないという意識がある。

北条氏の嫡男は石橋山の合戦で戦死した宗時であり、今の義時は江間という分家を立てている。一方で時政も義時も仮名(通称)は四郎であった。時政も義時も同じ四郎であるため、区別するために義時は小四郎と称した。北条氏の四郎には松平家の竹千代のような意味があったとする見解がある。

これに対して時政からすれば江間義時はあくまで分家である。政範死後は義時と姫の前の子どもの朝時に北条家を継がせることを考えていた。現実に朝時は時政の名越邸を継承し、その子孫は名越流と呼ばれた。また、朝時は義時から一時期、義絶されている。実朝に仕えた女房を口説いて実朝の怒りをかったためとされるが、時政派の朝時と義時の対立という政治的側面もある。


鎌倉殿は源実朝であり、将軍生母の政子の立場が強い。政子は同母弟の義時を支持していた。こうして政子・義時と時政・牧の方の対立が明らかになるが、将軍生母の政子の支持がなければ時政は権力を維持できない。この状況を打破するために時政と牧の方は実朝を廃して、平賀朝雅を新将軍として擁立しようとする陰謀を企てたとされる。


とはいえ陰謀が本当にあったかは別の問題である。比企能員の変、畠山重忠の乱と同じで、実際に陰謀があった訳ではなく、義時と政子が時政を追放する大義名分として陰謀を創出したとする見解も有力である。


時政は七月一九日に出家し、時政と牧の方は二〇日に伊豆北条へ出発した。時政の追放は畠山重忠の冤罪の責任追及と考えれば当然なことである。死ではなく、追放で済んだことが甘いくらいである。時政追放には文官や御家人達の支持があった。一方で新たに陰謀をでっち上げなければ冤罪の責任を取らせることもできないことに暗澹たる思いがする。


京では平賀朝雅が七月二六日に討たれた。御家人の後藤基清らの軍勢が朝雅の六角東洞院の邸宅を包囲した。朝雅は大津へ逃げようとしたが、途中の山科で自害した。朝雅があっけなく討たれたことも将軍擁立の陰謀をでっち上げとする見解を補強する。

陰謀の主犯の時政と牧の方を追放で済ませ、神輿として担がれた朝雅を殺すことには北条家の身内に甘い不公平感がある。

朝雅は京都で後鳥羽上皇に仕えていた。鎌倉幕府の御家人でありながら、院近臣という立場であった。後鳥羽上皇としては自分の近臣が鎌倉幕府によって勝手に討たれたことになり、鎌倉幕府を動かす北条義時に憎しみを抱いた。承久の乱はここから始まるとの見方もある。承久の乱が起きる前から朝廷と幕府の暗闘は水面下で始まっていた。


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