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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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三浦義村は冤罪批判を取り繕いたい

畠山重忠が冤罪で滅ぼされたことは誰もが感じることであった。重忠を滅ぼす際に積極的に動いた三浦一族への風当たりが強まった。三浦一族は源頼朝の挙兵の当初から頼朝側に立ったが、平家方だった畠山重忠に攻撃された。衣笠城の戦いで本拠地の衣笠城が落城するという憂き目にあっている。この際に一族の棟梁の三浦義明は戦死した。ここから三浦一族は衣笠城の戦いの恨みを晴らすために重忠を冤罪で滅ぼしたのだろうと見られた。


梶原景時の変でも三浦義村は動いている。梶原景時の変は結城朝光が義村に相談し、義村が動いて景時告発の流れになった。義村には当初は平家方であった景時を許さないという思いがあった。三浦一族には最初から頼朝に味方をしていたという誇りと、最初は平家方であり、後から頼朝の家臣になった裏切者を敵視する意識があった。


逆に義村が北条氏の下風に立つことは元々の三浦氏と北条氏の豪族としての大小関係からすれば信じ難い話である。このために実朝暗殺や承久の乱が義村の陰謀であり、義村は隙あれば北条氏を打倒しようとしたが、北条義時が一枚上手であったとの見解も出てくる。実際のところは、頼朝を家族として支えた北条氏を評価し、認めていたのだろう。


最初の挙兵時から頼朝に味方をしていたという誇りは近江佐々木氏も持っている。後の弘長元年(一二六一年)五月に御所に詰めていた佐々木泰綱ささきやすつな渋谷武重しぶやたけしげが口論になった。

「私の先祖の重国は相模国の大名であり、あなたの先祖の重国の居候であった」

武重が泰綱をなじった。

「当時は渋谷氏はじめ東国の大名小名は皆、平家になびいていた。自分の先祖は平家に従わずに凋落したのであり、恥じるところではない」

泰綱は反論した。佐々木氏は頼朝の旗揚げの時から頼朝に味方をした。これに対して渋谷氏は石橋山の合戦では平家方であった。


三浦一族が最初の挙兵時から頼朝に味方をしていたという誇りを持つことは理解できる。重忠に衣笠上の戦いの恨みを抱くことも変な話ではない。しかし、幕府の権力を使って謀反人という冤罪に陥れる手口は卑怯と評価される。正面から戦って勝てないから卑怯な手口を使ったと言われる。重忠が冤罪で滅ぼされたことで三浦一族の評判は急速に低下した。三浦義村は取り繕うことを考える必要に迫られた。


「冤罪の責任を取れ」

三浦義村らは重忠を讒訴したとして稲毛重成と弟の榛谷重朝を鎌倉で殺害した。重成の息子の重政も殺された。これによって三浦一族は重成にだまされて、重忠を冤罪で滅ぼしてしまったというポーズを取った。

重成らは重忠と同じ秩父平氏である。秩父平氏の中でライバル関係にあった。重忠を冤罪で陥れることで重成が秩父平氏の棟梁になろうとしたと動機が説明された。当然のことながら周囲の人々は白々しいと思った。

「三浦一族は最初から冤罪と理解していて、加担したのではないか」

後に千葉胤綱は義村を「三浦の犬は友を食らう」と批判している。また、藤原定家は日記『明月記』で義村を「八難六奇の謀略、不可思議の者か」と書いている。


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