北条義時は冤罪を批判したい
風雨が六月二三日の鎌倉を打ち付ける中、義時らの軍勢は静かに帰還した。鎌倉の風は、陰謀と疑念に包まれていた。北条時政の影がますます濃くなっていた。時政の陰謀は、まるで巧妙な網のように鎌倉を覆い尽くしていた。義時の目には、かつての誇り高い鎌倉の町が、時政の策略によって歪められているように映っていた。
義時は重忠の無実を知っており、かつての友情を思い起こした。重忠は清廉潔白な心を持ちながら、冤罪に苦しめられた。重忠は何ものにも屈せず、自らの潔白を証明しようとした。義時は怒りと悲しみが心を揺さぶった。義時は巧妙に張り巡らされた時政の陰謀を打破し、冤罪を晴らすことができるのか、それとも歴史の荒波に呑まれてしまうのか。物語は激動の展開を迎えつつあった。
「重忠は少数の兵しか用意していませんでした。謀反を起こそうとしていたとは考えられず、讒言による冤罪ではないでしょうか。気の毒で涙が止まりません」
義時は時政を批判した。時政は何も言えなかった。時政の冷酷な眼差しは、そのまま立ちはだかる者たちを無視し、自身の野望を遂げようとしていた。これが義時・政子と時政・牧の方の対立を深め、牧氏事件につながる。鎌倉の町は、二つの力がぶつかり合う緊迫感に包まれた。
吾妻鏡の義時は心ならずも重忠誅殺を行った立場と描かれる。孝という儒教道徳の観点では、親が滅茶苦茶なことをしても逆らうことは困難であった。平家物語では平重盛が後白河法皇を蔑ろにする父親の平清盛を諌めて命をすり減らしたと描かれる。そのような時代に父親の時政を追放した義時と政子とは画期的であった。
一方で『吾妻鏡』は義時を善玉、時政を悪玉に見せようと脚色しているとの批判がある。重忠滅亡後の武蔵守は義時の弟の時房が就任した。その後も武蔵守は北条一族が就任し、武蔵国は北条氏の重要な地盤になった。義時は畠山氏滅亡の果実を享受している(呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社現代新書、2021年)。
「追討軍の総大将は義時自身だった。重忠軍が少数であることが無実の理由ならば、途中で追討を中止することもできたはずであり、義時自身も追討に賛成だったのは間違いないだろう」(中丸満著、かみゆ歴史編集部編『鎌倉幕府と執権北条氏の謎99』イースト・プレス、2021年、111頁)
「畠山氏が北条氏の躍進に邪魔なことは義時にもわかっており、内心では重忠の討伐に賛成だったのだろう。とりあえず父の命をきくふりをして重忠を討伐し、その責任を父時政になすりつけたというあたりが真相だったと思われる」(中丸満『源平興亡三百年』ソフトバンク新書、2011年、267頁)




