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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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二俣川の戦い

畠山重忠の乱は吾妻鏡も認める冤罪である。重忠を討つ根拠は、北条時政が内容を説明せずに源実朝に出させた下文のみである。実態がないのに文書があることを根拠に冤罪が止められない状況には腹立たしさがある。とはいえ現代日本でも裁判所が逮捕令状の自動発券機になっていると批判されている(「裁判所は逮捕令状の自動発券機…激ヤバミスに批判集中」弁護士ドットコム2019年4月14日)。


六月二二日に由比ガ浜で謀反の騒ぎがあった。これは三浦義村が畠山重保を呼び出すための謀略であった。比企能員の変での能員の謀殺と同じく、呼び出されての騙し討ちである。由比ガ浜に来た重保は義村らの手勢に囲まれて殺害された。過去の戦いで畠山氏に遺恨を抱いていた三浦氏が主導した。

その頃の重忠は鎌倉に向かう途上であった。二俣川を見下ろす鶴ヶ峰で、重忠らに重保が討たれたとの情報が入った。さらに川の向こうには北条義時を総大将とし、北条時房、和田義盛らの大軍が待ち構えていた。

「兵力が違いすぎるので、いったん菅谷館に帰って備えを固め、敵を待ち受けましょう」

家臣の一人が進言した。

「そのようなことをしても、梶原景時のようになるだけだ。一時の命を惜しんでどうするのか」

重忠は反論し、二俣川で戦うことを決意した。ここで梶原景時を出している。梶原景時の変で景時は京へ上ろうとして、途上で討たれた。重忠は自己と景時を同じ立場に当てはめている。鎌倉時代の政治史は北条氏による有力御家人排斥の歴史になる。

しかし、それは後世から振り返ったから言えることであり、当時の人々が認識できたかは別である。御家人達が明確に認識していたならば北条氏が一つ一つ有力御家人を潰していくことを許さず、有力御家人が連合して北条氏を倒すだろう。この時点で自己の冤罪と梶原景時の変を連続したものと見る重忠の政治感覚は鋭い。重忠は武勇が有名であるが、政治感覚も優れていた。


鎌倉勢は万騎ケ原に布陣した。というよりも一万騎以上の鎌倉勢が布陣したため、万騎ケ原と呼ばれるようになった。

二俣川の戦いは圧倒的な兵力差にもかかわらず、畠山勢が善戦し、合戦は四時間に及んだ。重忠は愛甲季隆の放った矢に当たって戦死した。

重忠は死の直前に二本の矢を地面に突き刺して言った。

「我が心正かればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」

この矢は地面に根付き、毎年二本ずつ竹が生えてくるようになった。この竹は「さかさ矢竹」と呼ばれるようになった。

畠山勢は徹底抗戦の末に全滅した。一三四騎の首は六つに分けて埋葬された。それが六ツ塚と呼ばれる。


重忠は自己の武力で抗った。次の北条氏の他氏排斥である和田合戦で和田義盛は将軍御所を攻め、実朝の身柄を押さえようとした。将軍という錦の御旗を得ることで自らを官軍とする作戦である。重忠は自己の武力で抗い、重忠よりも単純そうな義盛が錦の御旗獲得という政治的な動きをすることは興味深い。畠山重忠の乱で学習したのだろうか。


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