畠山重忠の乱は冤罪
平賀朝雅は畠山氏が謀反を企んでいると牧の方に讒言した。牧の方は讒言を真に受けた。愛息の政範が将軍家御台所を迎える上洛中に急死しており、牧の方は悲嘆に暮れていた。一緒に上洛していた重保に政範の死の責任があると八つ当たり的な思いを抱いた面もあっただろう。
とはいえ、対立の本質は武蔵国の支配であり、朝雅と時政、牧の方にとっては重忠を排除する口実が欲しかっただけである。牧の方が陰謀を主導したと描かれることが多いが、武蔵国の支配をめぐる北条氏と畠山氏の対立という本質に目を背け、義時の父親である時政の問題を薄めようとする北条得宗家に都合の良い歴史観になる。
畠山重忠と北条時政の対立は誰の目にも明らかであった。
「北条時政が畠山重忠と戦って敗北し、山中に隠れた」
このような噂が京では流れた。『明月記』元久元年正月一八日条が記録する。武蔵国の武士団を率いる重忠が全力で戦えば時政が敗北すると予想することは自然であった。「山中に隠れた」は源頼朝の石橋山の敗戦からの連想だろう。
時政も正面から戦争して勝てる相手とは考えなかった。自身の政治的地位を確立するために陰謀を企てた。陰謀の実行者として稲毛重成を武蔵国から鎌倉に呼び寄せた。重成は時政の娘婿である。重成は元久二年(一二〇五年)四月一一日に鎌倉に入った。何か陰謀があるのではないかと鎌倉の人々は不安になった。
重成は畠山氏の本拠の菅谷館にいた重忠と重保を分断することを考えた。先に重保を鎌倉に呼び出した。重保の出発後に重忠に「鎌倉に異変があり、至急参上せよ」との虚偽の命令を出した。重忠は六月一九日に僅か一三四騎の手勢で菅谷館を出発し、重保は二〇日の夕方に鎌倉に到着した。
時政と牧の方は義時と弟の時房を自邸に呼んで重忠の誅殺を相談した。
「重忠が謀反を企んでおり、誅殺しなければならない」
これに対して義時は反対した。
「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」
時房も反対した。
「謀反の証拠はあるのですか」
時政は何も言わずに席を立ち、義時も時房も帰った。しかし、時政と牧の方は義時と時房の反対にもかかわらず、重忠の誅殺を決定した。
自宅に戻った義時のところに牧の方の兄の大岡時親が来て牧の方の言葉を伝えた。
「継母と憎んでいるから、私の言葉を信用してくれないのでしょうか」
義時は、これには逆らえず、従ってしまった。継母の権威は大きいのだろうか。平清盛も池禅尼には逆らえず、源頼朝を助命した。
このようにして畠山重忠の乱と呼ばれる事件が起きた。畠山重忠の乱と呼ばれるが、重忠が乱を起こしたものではない。本質は時政の陰謀である。この乱の命名は勝者の歴史の独善性を示している。この出来事は北条氏内部の信頼関係の崩壊を象徴するものとなった。




