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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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北条頼時は泰時に改名したい

頼家は都下りの平知康を蹴鞠の師匠とした。知康は後白河院の近臣であったが、源義仲と対立し、法性寺合戦が起きる。

「知康は法性寺合戦で勝てない戦いを仕掛けて、敗北し、公卿に恥をかかせた。その後は源義経と通じて関東を滅ぼそうとしたため、頼朝は解官追放するように奏聞した。そのような人物を側近に加えるとは何ということか」

北条政子は憤った。


北条義時の弟の時連ときつらは頼家の側近となり、頼家と共に蹴鞠を習熟していた。平知康は時連に改名を提案した。

「時連の連は銭の単位を意味する貫を連想し印象が悪い」

これを受けて時連は時房に改名した。改名は運命を変える縁起担ぎとして、多くの公家や武士達に行われていた慣習であった。しかし、これも政子を憤らせた。

「他人の名前に口を挟むとは何様のつもりか」


北条義時の嫡男の頼時は伊豆国で貧困に苦しむ民衆のために徳政を行った。民衆の声に耳を傾け、彼らのために政策を実行した。農民の借金を帳消しにし、田畑の増殖や農業の改善に力を入れた。また、商業の振興も行い、新しい市場を作ることで、地域経済を活性化した。


頼時は蹴鞠に興じた頼家とは対照的であった。頼家は頼時に声をかけた。

「戦いや政治に関わることが大切だけれども、蹴鞠のような楽しみも大切だと思わないか?」

頼時は貧しい民衆のために尽力していることを説明した。当時は為政者の不徳で自然災害が起こると考えられていた。このために自然災害の救済は為政者の義務であった。為政者の義務は現代の政治家以上に重いものであった。


頼時が借用証書を破り捨てたことは後の徳政令の先例になる。鎌倉時代後半から室町時代には借金を帳消しにする徳政令が繰り返し出される。これは問題の正しい解決になったかという疑問も出るが、頼時のしたことは文字通り徳政と評価できるものであった。執権北条氏の嫡流を得宗と呼ぶが、徳宗とも書き、徳政(徳のある政治)を行う主体と言う意味があったとする説がある。


頼時は泰時に改名する。泰時という名前には「平和な時代を創る」という願いが込められていた。頼時は泰時と改名することで、新たな時代の幕開けとともに自らも新たな気持ちで戦いに挑もうとした。

頼時の頼は頼朝の一字を拝領したもので、頼朝没後に改名していることから義時の源氏離れを意味するとの説がある。


北条時政は遠江守に就任する。源氏一門以外の御家人の国司就任は初めてである。これは政子の強い働きかけがあった。後に和田義盛が上総介を望んだ際に政子や義時は反対する。不公平感がある。政子を北条家に我田引水しない善玉とすることは苦しい。



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