冤罪を作った梶原景時は冤罪で滅ぶ
鎌倉幕府御家人の結城朝光は頼朝を偲んで言った。
「忠臣二君に仕えずというが、頼朝様が亡くなった際に出家した方が良かった」
この発言が梶原景時の変の出発点になった。朝光は阿波局から声をかけられた。阿波局は北条時政の娘、政子の同母妹である。
「梶原景時が、あなたの発言を謀反と鎌倉殿に讒言しています」
出家の表明は後継者に対する消極的な不服従宣言と受け止められる面があった。「出家の身となれば、少なくとも新政権の役職は勤められない。不服従でなくとも、不参加であることは確かだ」(伊藤正敏『寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民』筑摩書房、2008年、203頁)。
朝光は慌てて三浦義村に相談した。義村は和田合戦の裏切りで「三浦の犬は友を食らう」と酷評される。しかし、人から頼られるところもあった。
義村は御家人が結束して景時を糾弾することを提案した。景時の糾弾には六六人の御家人が同調した。畠山重忠も加わった。景時に讒言された過去があり、当然である。
阿波局は景時が讒言したと述べたが、本当に景時が讒言したかは不明である。北条氏の陰謀があったとの見解がある。北条時政は景時糾弾の署名に加わっていない。これは逆に不自然として時政陰謀説の根拠になる。
阿波局と朝光の会話自体を芝居とする見方もある。「朝光の兄の小山朝政は事件後に景時の播磨国守護職を得ているから、談合自体が他者の視線を意識した芝居であった可能性は高い」(本郷和人『新・中世王権論』文藝春秋、2017年、112頁)
失脚した景時は一族と共に領地の相模国一ノ宮に退いた。その後に上洛しようとして、途中の駿河国で討たれた。駿河国の守護は時政であり、これも時政の陰謀の根拠になる。
北条政子の陰謀とする見解もある。「『吾妻鏡』の記述をたどっていくと、阿波局は単なるおしゃべりではなく、政子の思惑を受けて動いたと考えることができる」(永井晋『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年、134頁)
梶原景時は讒言で冤罪を作ったと批判される。自分も冤罪で滅んだことは皮肉である。
陰謀論に対する興味深い指摘がある。「陰謀がらみの場合、真相解明を妨げる最大の要因は、努力の欠如―観察者が表面的には無関係と見える事柄のあいだにつながりを見いだそうとする努力を怠ることだ」(ショーン・ウィリアムズ、シェイン・ディックス著、小野田和子訳『星の破壊者 上 銀河戦記エヴァージェンス 2』ハヤカワ文庫、2003年、135頁)。陰謀論者を頭ごなしに馬鹿にする風潮があるが、馬鹿にする方が努力不足かもしれない。
梶原景時の変後に重忠は侍所で御家人達と話をした。渋谷高重は景時を酷評した。
「近くの橋を落として館に立て籠もれば良かったのに逃げ出して、その途中で討たれた。みっともないことだ」
これに対して重忠は反論した。
「突然のことだから堀を作り、橋を落とす余裕はなかっただろう」
この時の会話は重忠の印象に残るものであった。後に重忠は冤罪で滅ぼされるが、梶原景時とは異なる行動をとった。




