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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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十三人の合議制

十三人の合議制は鎌倉殿の権力制限と見る説と補佐機関と見る説がある。古典的な歴史学説は十三人の合議制を頼家の恣意的判断を制限するためのものと位置付けた。幕府は将軍が好き勝手にできるものではなく、御家人達の共有物という感覚があった。


面白いことにイギリスでも一二一五年に君主の権限を制限し、法の支配の先駆けとなるマグナ・カルタが制定された。今ではマグナ・カルタは近代人権保障の出発点と位置付けられるが、当時の人々が近代的人権を考えていた訳ではなく、貴族達が封建的権利を求めたものであった。ほぼ同じ時期に日本でも主君の権限を限定する動きが出た点は興味深い。


これに対して近時は頼家を否定するものではなく、宿老達が合議し、頼家が最終判断する補佐機関とする見解が有力である。訴訟の取次を十三人に限定するという、他の御家人に対する十三人の談合という側面も主張される。

「十三人合議制は必ずしも頼家の権力を掣肘するものとは言えず、むしろ年若い頼家を補佐する仕組みと言える。当初から頼家と有力御家人たちが対立していたと見るべきではない」(呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年、92頁)


どちらの視点に立つとしても、十三人の合議制の優れたところは対立関係を包含したことにある。鎌倉政権は源頼朝の時代から源氏の嫡流の独裁と坂東の武士達の利益という矛盾を抱えていた。十三人には大江広元や梶原景時ら将軍側近も比企能員や和田義盛、北条時政ら有力御家人も属している。有力御家人も比企と北条のように対立を抱えている。対立者も包含することは議会制民主主義と重なる。


現実は合議制で政権が安定した訳ではなく、陰惨な一族皆殺しが繰り返された。冤罪で滅ぼされた一族も多い。十三人の合議制は早期に崩壊したが、後に北条泰時が評定衆として制度化した。既に頼朝の血筋は絶え、摂関家からお飾りの将軍を迎えている。将軍に実権はなく、権力制限か補佐機関かという議論は意味がなくなった。


頼家は暗君や暴君ではなかったが、独力で鎌倉政権を担うには力不足であった。頼家がもう少し我を抑えられたら、不幸な結末にはならなかったのではないかとの歴史のIFを考えたくなるが、それは容易ではなう。家庭内では若狭局と辻殿が争っている。これは一幡と公暁の後継者争いになる。一幡には比企能員、公暁には乳母夫の三浦義村がバックにつくため、御家人の権力争いから逃れられない。


頼家が安楽な一生を送りたいと思ったとしても、頼朝のように覇道を歩むことが唯一の解になるかもしれない。頼家は若手近習を頼みにする。これは頼朝も採った方法である。実際、北条(江間四郎)義時は頼朝の若手近習であった。但し、義時は江間という分家を興して北条から相対的に自立したが、頼家の若手近習が自身の属する一族よりも頼家を優先するかは未知であった。


むしろ頼家に必要なことは頼朝の遺産を上手く使いこなすことであった。遺産の一つが梶原景時である。景時は頼家の「一の郎党」であった。景時を守れなかったことが頼家の不幸につながる。景時は私利私欲しか考えない御家人達の押さえになる存在であり、頼家が景時を上手く利用すれば頼朝のような将軍独裁を目指せただろう。



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