源頼朝は大姫を入内させたい
源頼朝は建久六年(一一九五年)に政子や大姫、頼家ら一家揃って上洛した。大姫を後鳥羽天皇への妃にする入内工作を目的としていた。これには様々な評価がある。
第一には京都育ちの貴族である頼朝の古さとする。頼朝も平清盛と同じメンタリティだったとする。
第二に二代目の頼家の権威を盤石にするために朝廷の権威が必要だったとする(呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社現代新書、2021年)。
「頼朝にとって重要であったのは、鎌倉殿という幕府内の地位を、自己の子孫たちにいかに継承させるかであり、源家棟梁家を天皇との婚姻関係により権威づけることで、血統の存続を担保しようとしたのであろう」(菱沼一憲『源頼朝 鎌倉幕府草創への道』戒光祥出版、2017年、15頁)
自分自身は朝廷だろうと何だろうと恐れることはなかった。しかし、自分の権勢が自分の息子に継承されることに自信がなかった。そのために朝廷の権威を利用する必要があったとする。
後白河院崩御後の朝廷は関白・九条兼実が権力を握っていた。兼実は頼朝の理解者・盟友であり、頼朝に征夷大将軍を宣下するなど関東と強調した。ところが、頼朝が大姫入内を目指すようになると二人の関係に隙間風が吹くようになった。兼実は娘の任子を入内させ、中宮としていた。大姫を入内させた場合は強力なライバルになる。
この間に源通親(土御門通親)が勢力を蓄えた。通親は頼朝に良い顔をすることで、頼朝の支持を得た。その一方で通親は養女の在子(承明門院)を後鳥羽天皇に入内させ、朝廷の中でも発言権を強めた。
通親は建久七年(一一九六年)に建久七年の政変を起こし、九条兼実を失脚させた。頼朝の理解者であった兼実失脚を許したことは評価が分かれる。大姫入内に目をくらみ、通親に手玉に取られた頼朝の失策と評価する声がある。一方で通親は頼朝の利益を尊重しており、頼朝が通親と協調することは妥当な選択する説もある。
大姫は建久八年(一一九七年)に亡くなってしまう。この時に頼朝は氷川神社に神馬神剣を奉納した。頼朝にとっては神仏の加護を求めたい時であった。
頼朝は建久九年(一一九八年)一二月二三日に相模川に架けられた橋の橋供養に出かけた。橋供養は完成した橋の無事を願って行われる渡り初めの儀式である。その帰りに頼朝は落馬した。
「馬に乗り慣れた武将が落馬することは考えにくい」
「源義経の亡霊に襲われたのではないか」
「いや、平家の亡霊だよ」
「脳梗塞が起きて落馬したのではないか」
そのまま頼朝は体調を崩し、建久一〇年(一一九九年)正月一一日に出家し、一三日に亡くなった。
頼朝の死後は息子の頼家が第二代鎌倉殿になる。頼家政権下で建久一〇年(一一九九年)四月に十三人の合議制が発足する。畠山重忠は十三人には含まれなかった。重忠は鎌倉幕府の外様大名的な位置付けであった。




