岸本遠綱は平家と戦いたい
治承四年(一一八〇年)の富士川の合戦の敗北により、平氏の威信は失墜した。この結果、後白河院政が再開された。この時に讃岐国と美濃国が院分国となった。
近江国は美しい風景が広がっていた。しかし、この穏やかな土地にも平家の横暴が及んでいた。武士達の顔に反感が滲んでいた。
岸本(平井)遠綱(重綱)は本拠地の近江国愛知郡岸本で部下を集めた。岸本は風光明媚な場所で、山々に囲まれた自然に恵まれた土地であった。遠綱の目には覚悟が宿っていた。その顔は清廉で、風に舞う髪が彼の風格を引き立てていた。
「我ら、清和源氏の誇りを胸に、平家の暴虐に立ち向かうぞ。準備を整えよ」
遠綱は清和源氏満季流高屋氏の分家である。高屋氏は高屋為貞、高屋為房、高屋実遠、高屋定遠と続く。近江国神崎郡高屋庄を本拠とする。遠綱は近江国愛知郡岸本(滋賀県東近江市岸本)に進出し、分家を興した。遠綱は林田氏の初代・林田肥後守泰範の祖父である。遠綱は建久二年の強訴に巻き込まれた人物である。これによって歴史上に名前を残すことになった。
家臣達は遠綱の言葉に耳を傾け、その決意に共鳴した。彼らの顔には覚悟と団結の意志が滲んでいた。
「我らは皆、この誇り高き家の一員として、戦いに挑みます」
「我々は知恵と勇気で彼らに立ち向かう。しかし、それだけでは不足だ。我々は、平家の暴虐を証明し、歴史に記録される出来事を作り出す必要がある」
「そうです。我々は清和源氏の名のもと、立派な武士としての歴史を刻みます」
遠綱らは治承四年一一月に反平家の挙兵をした。遠綱はその勇敢さと戦術的な知恵で義仲の軍勢を支え、平氏に立ち向かった。
近江の反平家の武士の代表格が山本義経である。一一月二〇日に弟の柏木義兼(甲賀入道)と共に挙兵した。浅井郡山本郷を本拠としたから山本義経であるが、本姓は源義経である。清和源氏義光流(近江源氏)である。頼朝の弟の九郎判官義経とは別人である。山本山城を本拠地とした。山本山城は戦国時代に浅井氏の本拠の小谷城の支城になる。
しかし、この挙兵は散々であった。平家は平知盛らの大軍を派兵した。山本義経は山本山城に籠城したが、落城した。関東や東海道では情けない平家であったが、畿内近国では強大であった。山本義経は落ち延びた。
木曽義仲が寿永二年(一一八三年)五月一三日に倶利伽羅峠の戦いで平維盛率いる平氏の大軍を破った。その勢いで六月一三日に近江国へ入った。
「近江国の武士たちよ、我らは木曽義仲のもとへ。誇り高き武士の血が騒ぐ時だ」
岸本遠綱は近江の武士達に呼び掛け、義仲のところに馳せ参じた。
義仲は遠綱を歓迎した。
「参陣を歓迎する。平氏の勢力は依然として厳しい。我々はここから先も団結し、勝利を手に入れねばならん」
「はい、義仲様。我らは清和源氏の誇りを胸に、平氏に挑む覚悟で参じました。勝利のために全力を尽くします」
木曽義仲が攻めてくると平家は寿永二年(一一八三年)七月に都落ちを余儀なくされた。京は攻めやすく守りにくい土地である。義仲は京を包囲しつつも、戦場とすることを避けるため、むしろ平家が逃げられるようにした。平家の栄華は長くは続かず、「驕る平家は久しからず」である。平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じたが、後白河院を逃がしたことは失策であった。
京では後白河院の主導で八月に後鳥羽天皇が即位した。後鳥羽天皇は三種の神器なしで即位したため、正統性が疑問視される。それがコンプレックスになり、天皇らしくあろうとした。




