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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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さいたま市桜区

重忠は武蔵国男衾郡(埼玉県深谷市)を本拠地とした。文治三年(一一八七年)頃から菅谷館すがややかたを居館とした。これは埼玉県嵐山町にあり、鎌倉街道が走る交通の要衝である。重忠の領地は武蔵国だけでなく、伊勢国や陸奥国、信濃国にも広がっていた。

建久四年(一一九三年)に武蔵国の武士団同士で小競り合いが起きる。源頼朝は重忠に解決を命じた。平賀朝雅が武蔵守であったが、頼朝は武蔵守の朝雅よりも武蔵国留守所惣検校職の重忠の方が解決力はあると見ていた。この武蔵国の実質的な支配者は誰かという問題は、後に北条時政が介入し、畠山重忠の乱の冤罪につながる。


重忠の領地は埼玉県さいたま市桜区にもあり、居館を置いていた。重忠は武蔵国の武士団の中心的存在となり、桜区は大いに栄えた。桜区には重忠ゆかりの地名がある。桜区町谷は重忠の居館の城下町があったことに由来する。桜区道場は持仏堂(道場)を建てたことに由来する。

桜区宿は重忠の居館があった頃に家が軒を連ねて宿のようであったことに由来する。東日本には宿という地名が多い。「東国の宿の多くは、豪族・領主の館・城と関りをもっている点に特徴があり、東国の都市を考える場合、そうした視点が必要なのではあるまいか」(網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社学術文庫、1998年、294頁)

桜区西堀には重忠の家臣の真鳥日向守の居城の真鳥城があった。日向は地名にもなっていた。国際興業バスのバス停として日向が残っている。真鳥日向守は畠山の重忠の乱の後に主人重忠の霊供養のため剃髪し仏門に入った。


桜区道場には平安時代に大伽藍があった。『新編武蔵風土記稿』では保元の乱の兵火で焼失したとする。『新編武蔵風土記稿』は江戸時代に昌平坂学問所地理局が編纂した地誌である。

保元の乱は京で起きた戦争であり、むしろ保元の乱の前年の大蔵合戦と考えられる。大蔵合戦は河内源氏の源義朝と父親の源為朝の親子対立が背景にあった。この対立は翌年の保元の乱で直接対決になる。大蔵合戦は源氏にとっては保元の乱の前哨戦となる。その意味で大蔵合戦の兵火を広い意味で保元の乱の兵火と記すことは成り立つだろう。また、保元の乱に際して武蔵国でも義朝派と為朝派の争いが再燃したならば、保元の乱の兵火となる。

桜区道場では重忠の領地であった建久年間に土の中から観音像が出た。これを大伽藍があった時の本尊だったとして守護仏とし、持仏堂(道場)を建てた。これが金剛寺になる。金剛寺の境内には菅原道真を祀った天満宮もあった。これが道場天満宮になった。

菅原道真は冤罪で左遷されて亡くなり、怨霊になったと恐れられ、祀られた。この怨霊の鎮魂や慰霊は仏教主導で行われていた。北野天満宮も朝日寺(東向観音寺)の神宮寺であり、僧侶が別当職に任命されていた。純粋な神社になったのは明治時代の神仏分離後である。

鎌倉の最大の宗教施設の鶴岡八幡宮も寺であり、鶴岡八幡宮寺と称された。八幡神は八幡大菩薩となり、仏であった。源頼家の息子で出家した公暁が鶴岡八幡宮寺別当に就任したように僧侶が運営していた。


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