北条政子は鹿を射止めても驚かない
平泉を占領した頼朝は毛越寺や中尊寺といった大寺院に圧倒された。鎌倉でも平泉を真似て永福寺を建立した。建立は文治五年(一一八九年)一二月九日から始まった。その工事で重忠は一丈(約三米)の大石を一人で持ち上げて運んだ。重忠の怪力を示すエピソードである。
永福寺は平泉にあった二階建て寺院を真似たために二階堂と呼ばれた。重忠は大石を運んだ功績から、周囲の人々から尊敬され、信頼される存在となっていった。その一方で、彼の心には新たなる想いが芽生えつつあった。永福寺の美しい風景と静けさが、重忠の心に平穏と癒しをもたらした。
後に源実朝は建仁三年(一二〇三年)一一月一五日に鎌倉の寺社の担当を御家人に割り振った。鶴岡八幡宮は北条義時や和田義盛である。重忠は三浦義村と共に永福寺の担当になった。大石を運んだことが影響しているだろう。重忠は、その怪力で寺の境内を整備し、修繕することを日々精力的に行った。
奥州藤原氏を滅ぼし、後顧の憂いをなくした頼朝は建久元年(一一九〇年)に上洛する。頼朝の上洛は鎌倉殿の力強さと統一の意志を示す重要な出来事となった。鎌倉軍は多くの都人や貴族らの目に触れ、その壮麗な装備と武力が圧倒した。
この上洛軍でも重忠は先陣を務め、京に向かう軍勢は壮大な輝きを放った。この上洛は都人に鎌倉の軍勢の壮麗さを見せつける一大デモンストレーションであり、重忠は適任であった。重忠の武勇と怪力は鎌倉の威光を象徴する存在として注目を浴びた。
頼朝は京で後白河院に参院した。重忠は北条義時や葛西清重らと七人の布衣の侍となり、参院に供奉した。重忠の姿勢は鎌倉殿の威信を高め、その統治力を示すものとして、多くの人々に感銘を与えた。重忠は戦場だけでなく、政治的な場でも頼朝の意志を支える力となった。
後白河院との会話の中で、頼朝は内乱の収束と平和の到来を語った。頼朝が政治的な権力を持ちながらも、朝廷との協力と調和を重視し、国内の統一と安定を図る意志を表明した。この上洛は内乱の終結と平和の到来を意味する天下落居の宣言になった。鎌倉の武士達の奮闘と、その中でも特に重忠の存在が、日本の歴史の中で輝く瞬間として刻まれた。
源頼朝は建久四年(一一九三年)に富士の巻狩りを行う。巻狩りには北条時政や畠山重忠ら有力御家人が参加し、武士達が腕前を競い合い、名声を高める機会となった。富士の巻狩りは頼朝の嫡男の万寿(後の源頼家)の晴れ舞台として演出される。万寿は寿永元年(一一八二年)生まれである。誕生時に畠山重忠がお祝いの護り刀を進上している。
万寿は周囲の御膳立てにより、見事鹿を射とめたことになった。頼朝は梶原景高を使者として、鎌倉にいた母親の北条政子に伝えた。
「鹿を射止めることは当たり前のこと」
政子は冷たい反応であった。喜び勇んで報告した景高は肩透かしになった。御祝儀をもらえると期待していたが、何ももらえずに帰ることになった。
この理由は諸説ある。
第一に本当に坂東武士の嫡男として当たり前のことと思っていたとする。頼朝は嫡男の晴れ舞台として演出したが、政子にとって万寿が嫡男であることは当たり前であった。政治的な演出をしたい頼朝とは視点が異なっていた。
第二に頼朝は巻狩りを名目に浮気をしており、政子は腹を立てていた。万寿が鹿を射止めたことの報告も見え透いたご機嫌伺いであった(永井路子『北条政子』文春文庫、1990年、325頁)。
第三に乳母の比企能員夫婦との政治的駆け引きとする。本当は嬉しいが、比企の前では褒めなかった。大姫と二人きりになると「万寿が帰ったらうんと誉めてやりましょう」とはしゃいだ(『鎌倉殿の13人』第23回「狩りと獲物」2022年6月12日)。
第四に政子は頼家や頼家の取り巻きを嫌っていたたためとする。「この一件で、政子が頼家とその取り巻きを快く思っていないことが明らかになる」(永井晋『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年、117頁)。




