畠山重忠は奥州合戦の先陣を務めたい
文治五年(一一八九年)に奥州合戦が起こる。頼朝は後白河院に奥州藤原氏討伐の宣旨を要請した。しかし、宣旨は届かなかった。
「宣旨がなければ出陣できない」
ヤキモキする頼朝に大庭景能が進言した。
「戦場では天子の詔ではなく、将軍の命令を聞くものです」
これを聞いて頼朝は宣旨なしで出陣した。
この奥州合戦で重忠は大手軍の先陣を務めた。頼朝は大手軍、東海道軍、北陸道軍の三軍に分けた。重忠は鎌倉街道から下野国を経て奥州に進軍した。奥州藤原氏は藤原国衡が阿津賀志山を要塞化して迎撃した。
重忠が先陣を命じられていたが、三浦義村と葛西清重が陣を抜け出して抜け駆けをしようとした。
「先陣を賜っている以上、功績は全て自分のものである」
重忠は抜け駆けを聞いても悠然とし、放置した。重忠には確固とした攻城プランがあった。夜のうちに人夫に鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めさせた。人夫も鋤鍬も予め重忠が用意していたものである。重忠は翌朝に攻撃を始め、平泉軍を退却させた。
鎌倉武士の戦いと言えば騎馬武者の一騎打ちをイメージするが、重忠は工兵による攻城戦も考えていた。逆に重忠には弓矢のエピソードが乏しいため、弓矢は不得手であったとの見解もある。完璧超人よりも、自分の得意分野で勝負する方が共感できる。
藤原泰衡は逃走したが、郎従の河田次郎に殺された。次郎は泰衡の首を手土産に頼朝に降伏した。
「累代の主君を裏切った者は許さない」
頼朝は次郎を斬罪にした。頼朝の父親の義朝も平治の乱で敗走中に家臣に裏切られて殺害された。
由利八郎という武士が捕虜として連行された。彼は緊迫した雰囲気の中、梶原景時のもとへ引き立てられた。景時は八郎に無礼な尋問をした。
「泰衡は謀反人である」
「主君泰衡は秀衡将軍嫡流の正統である」
八郎は、その凛とした態度で景時の無礼な尋問にも動じずに立ち向かった。
「捕虜になって恥ずかしくないのか」
景時の尋問はまだ続いた。
「運尽きて囚人と為るは、勇士の常である」
八郎はたじろぐことなく堂々と答えた。彼の言葉には、武士としての誇りと勇気が込められていた。由利八郎は、恥じるべきことではないという信念を持ち、自らの運命を受け入れる勇気を持っていた。
これを聞いた頼朝は、その背後にある武士の尊厳と誇りを理解した。彼は由利八郎の堂々とした態度と言葉に感銘を受け、重忠を派遣して丁寧に応対させた。鎌倉武士には戦前の日本軍の玉砕思想はなかった。
重忠は、重厚な鎧を身にまとい、静かな威厳を持って由利八郎の前に現れた。彼は礼儀正しく挨拶し、由利八郎との対話を始めた。重忠は、由利八郎の言葉に深く共感し、彼の武士としての誇りと勇気を称賛した。そして、鎌倉幕府が武士の尊厳を尊重し、その意見を重んじることを伝えた。
八郎と重忠の対話は、武士たちの心の奥底に秘められた誇りや信念、そして勇気を描き出していた。それぞれの立場や背景にかかわらず、彼らは互いの尊厳を尊重し、武士としての誇りを失わないことの重要性を共有していた。この出会いと対話は、後の時代においても語り継がれ、武士道の精神を象徴するエピソードとして称えられることとなった。




