島原の乱
島原の乱は日本最大規模の内戦・一揆である。天草でも一揆が起きており、島原・天草の乱や島原・天草一揆とも呼ばれる。島原の乱には以下の三要素がある。
・重税に耐えかねた農民反乱
・キリスト教弾圧に対する宗教戦争
・没落した武士による戦国時代最後の合戦
伝統的な歴史観ではキリスト教弾圧への反抗という側面が強調された。しかし、これは島原藩主が自己の圧政を誤魔化すために切支丹の問題と喧伝した面がある。これに対してポルトガル商人は過酷な税収奪に対する農民反乱との見方であった。ローマ教皇庁も島原の乱の犠牲者達を殉教者とはしていない。レオ林田助右衛門らとは扱いが異なる。島原の乱への冷たさには、ローマ教皇庁にも支配者への反抗を悪とする封建領主的価値観があったためである。
伝統的な歴史観への反動として、さらには唯物史観のように社会経済的要素を重視する立場からは、宗教だけで説明することを嫌い、過酷な政治への反発を強調する傾向がある。
大橋幸泰『検証島原天草一揆』(吉川弘文館、2008年)は一揆と典型と位置付ける。「この一揆は、一揆発生時はもちろん、近世期を通じて『一揆』の典型例として語り継がれてきた。領主と百姓との緊張関係を維持するのに大きな役割を果たした事件として、近世人にとってこの出来事は『一揆』そのものなのであり、『一揆』こそこの事件の呼称としてふさわしい」(190頁)
その後に改めてキリスト教の問題も重要と見直されるようになった。島原の乱は宗教の自由を求める民衆運動でもあった。「近代の日本に、民主を求める動きが高まっていった歴史の河をさかのぼると、島原の乱に行き着く」(上別府保慶「今につながる島原の乱」西日本新聞2020年5月28日)。
ヨーロッパでは三〇年戦争などの宗教戦争の悲惨さから信教の自由が自由の金字塔とされるようになった。日本の島原の乱も同じように位置付けることができる。島原の乱の教訓は「信仰の自由や思想信条の自由を害するようなことを強要してはならない」となる。
島原の乱は島原の動向から語る必要がある。島原は切支丹大名の有馬氏が治めていたが、有馬直純は江戸幕府の方針に従い、切支丹弾圧に転じた。直純は慶長一八年(一六一三年)四月二五日に父と後妻ジュスタの間に生まれた異母弟のフランシスコ(富蘭、八歳)とマティアス(於松、六歳)を殺害した。改宗を拒否した家臣のレオ林田助右衛門らを慶長一八年一〇月七日に火刑にした。
ここでは支配領域の連続性から島原藩という言葉で統一するが、この時点では藩庁は日野江城にあるため、厳密には日野江藩である。正式に島原藩となるのは松倉重政が島原城を築城し、藩庁を日野江から島原に移してからである。
島原藩内では切支丹について活発な議論がなされた。
「一つ聞きたいことがあるのだが……」
「何でしょう?」
「切支丹について、どう思う?」
「切支丹? うーん、そうですねぇ……。あまり良い印象はないかなぁ……」
「どうしてだ!?」
「だって、切支丹って仏教を弾圧しているじゃないですか。切支丹大名が治める土地では神社仏閣が破壊されたらしいし……」
「確かにそうだな。だが、中には例外もあったのだぞ」
「そうなのですか?」
「切支丹大名には切支丹を保護しつつも、切支丹以外の者にも信仰の自由を与えた。つまり、改宗を強要しなかったんだ」
「なるほど。しかし、それでも、やはり切支丹は嫌いだなぁ」
「何故だ?」
「切支丹のせいで多くの人が死んだんだ。好きになれるわけがないじゃないか」
「まあ、それも一理はあるな。だが、それだけで嫌いになる必要はないと思うけどな」
「えっ、何故だ?」
「だって、全ての切支丹が悪いわけでもないじゃないか。むしろ、善良で敬虔な信徒の方が多かったはずだ」
「そうなんですか?」
「そうだとも。宣教師も著書の中で、日本人はキリスト教徒になりやすいと書いている。そして、宣教師たちも日本人のことを愛していた。だからこそ、宣教師たちの多くは布教活動のために日本に来たのだと思うぞ」
「そうなのですか。だったら、切支丹が悪いとは言い切れないのかもしれないですね」
「ああ、その通りだよ」
「あなたは切支丹が好きか、それとも、嫌いか?」
「私は切支丹が好きだ。切支丹のおかげで、今の私たちがいると言ってもいいくらいだし……」
「そうか。それは良かった」
「うん。これからはもっと切支丹のことを知っていきたいと思っている」
「そうか! それは素晴らしいことだ!」
「ありがとう」
「いや、礼を言う必要なんてないよ」
「でも、嬉しい気持ちは本当だからね」
「そっか。なら、私も嬉しく思っていると伝えておく」
「ふふ、よろしく頼む」




