畠山重忠は梶原景時の冤罪と戦いたい
重忠は頼朝から武勇を評価されていた。しかし、重忠は信頼される一方で、権力争いとは無縁ではなく、彼の立場も脆いものであった。ある時、梶原景時の讒言で重忠は謀反の冤罪を着せられる危機に瀕した。景時の陰謀によって、重忠の評判と信念が試されることになった。
文治三年(一一八七年)六月に重忠の代官が伊勢で他者の財産を奪う事件を起こした。この事件は重忠にとっては突然の出来事であり、彼はその責任を取るべきかどうか苦慮した。結局、重忠は別の御家人に身柄を預けられてしまう。これに対して重忠は抗議の意思を示すために、七日間も飲食を絶つという行動に出た。この行動こそが、彼の武士としての誇りと信念を象徴していた。
頼朝は重忠の姿勢に感銘を受けた。彼は讒言を無視し、重忠に対して罪を許す決断を下した。重忠は本拠の武蔵国畠山荘に戻り、その地で心を静める日々を送った。ところが、梶原景時はまだ重忠を狙っていた。景時は頼朝の信任を勝ち得ようとして、重忠の行動を歪曲し、彼が謀反を企てたという讒言を広めた。
「重忠が畠山荘に帰った理由は謀反のためである」
景時の陰謀は重忠の耳にも届いた。彼は激しく怒り、同時にその讒言に対して反論する覚悟を固めた。景時は重忠に謀反を否定する起請文を書くよう要求したが、重忠はこれに応じなかった。
「謀反の噂があることは、むしろ武士としての名誉だ。私は鎌倉殿に対して逆心を抱いていないし、武士には誠実な言葉しかない。だから起請文を書く必要はない」
重忠は堂々とした態度で反論した。この重忠の勇気ある反論と、自身の信念を貫く姿勢は、頼朝に強い印象を与えた。彼は景時の讒言を見抜き、重忠の忠誠心と信念を再び評価した。頼朝は決して常に景時の言いなりになるわけではなく、彼自身の判断と武士としての品性を重んじていた。
重忠の物語は、讒言や陰謀が渦巻く時代背景の中で、信念と勇気を持って立ち向かう武士の姿を描いたものである。重忠の物語は、武士道の精神と人間の尊厳を讃えるものとして、後世に語り継がれていった。
一方で頼朝は重忠を警戒していた。鎌倉幕府にとって外様大名のような存在であった。頼朝は同じ秩父平氏で武蔵国留守所惣検校職の河越重頼と重用することで重忠を牽制していた。重頼は頼朝の乳母の比企尼の次女の河越尼と婚姻した。その娘の郷御前は源義経の正室となった。重頼は源氏と密な婚姻関係を形成した。
ところが、源頼朝と源義経が対立すると、頼朝は義経の正室の郷御前の父親の河越重頼を誅殺した。武蔵国留守所惣検校職は重忠に移った。全国に守護が設置された後も武蔵国は鎌倉殿の知行国であり、武蔵国は国衙と守護の二元政治にはならず、知行国主の頼朝から武蔵守の平賀義信、惣検校職の重忠という命令系統となった。
頼朝の愛妾の静御前が捕らわれて鎌倉に護送された。静御前が鶴岡八幡宮にて頼朝の前で舞を舞った際に重忠は銅拍子を打った。銅拍子は打ち合わせて音を出す打楽器である。重忠は京に住んでいた経験があり歌舞音曲の素養があった。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では北条泰時が重忠をあらゆる面で優れた武者と絶賛していた。
義経の女性と言えば静御前が圧倒的に有名であるが、奥州平泉への同行したのも最期を共にしたのも郷御前であった。この点を考えると藤原泰衡が義経を殺したことは悪手であった。平泉の平和のために鎌倉と戦うよりも共存の道を探るという外交方針は必ずしも誤りではない。しかし、鎌倉と共存するためにも郷御前から比企氏のとりなしのルートは価値がある。
泰衡が頼朝の家人の義経を許可なく殺したことは、頼朝が奥州藤原氏を攻撃する理由になった。頼朝は義経の軍事的才覚を恐れており、義経を殺したことで頼朝は平泉攻めを躊躇しなくなったと説明される。軍事的な優位性の喪失だけでなく、奥州藤原氏は命じられて殺したものであるが、義経と家族を殺した敵意も引き受けることになった。梶原景時でさえ奥州から送られた義経の首を見て泣いた。




