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岡本大八事件

岡本大八は慶長一七年三月二一日(一六一二年四月二一日)に駿府阿倍河原で火刑に処せられた。有馬晴信は詐欺の被害者であるが、恩賞斡旋を名目に多額の金品を詐取した収賄事件と事件を位置付ければ、晴信は贈賄になる。


より問題は拷問を受けた大八が「晴信は長崎奉行の長谷川藤広の暗殺を謀っている」と自白したことである。それによって晴信も罪に問われた。実際はデウス号への攻撃方針について晴信と藤広に意見の対立があり、怒った晴信が「デウス号を沈めた後は藤広を沈めてやる」と口走っただけである。

自白強要の冤罪は本人だけでなく、他人にも起こるものである。現代日本でも共謀罪で問題が起きると批判されている。晴信は甲州に配流された。そこに板倉周防守重宗は家来百五十名を率いて幕府の検使とした来た。重宗は晴信に自刃を迫った。晴信はキリスト教で自害が禁じられていることから切腹を拒み、妻達が見守る中で、家臣に首を切り落とさせた。


本多正信・正純親子は、岡本大八が勝手に行った悪事であり、自分達は全く知らなかったと主張した。しかし、これを額面通りに信じた人は少ない。本多親子も賄賂を受け取っていたのではないかと思われた。岡本大八事件でキリスト教弾圧の話になったことには、本多親子の話題そらしの側面がある。


岡本大八事件は大久保忠隣対本多親子の権力闘争の側面がある。岡本大八事件で本多の権勢が一時衰退したが、後の大久保長安疑獄事件で大久保は失脚する。さらに後には宇都宮釣り天井事件で本多も失脚した。


江戸幕府の切支丹弾圧政策は、岡本大八事件によって一変した。晴信も大八も切支丹であり、キリスト教禁教の動きが加速化した。幕府は大八を処刑した同じ日に江戸や京都・駿府などの直轄地に教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を出した。多くの大名も禁教令にならったが、この時点では全ての大名の領内に禁教を徹底するものではなかった。幕府直轄領を追われた信徒が西国や東北に逃亡することは黙認された。


慶長の禁教令は切支丹の幕臣に棄教を迫るものであった。棄教しない幕臣は改易・追放された。家康の息子で幡豆小笠原氏を継いだ小笠原権之丞も切支丹であった。棄教を拒否したため、改易・追放された。後の大坂の陣では大阪方で戦っている。豊臣家は江戸幕府から弾圧されている切支丹の希望であった。島原の乱で天草四郎が豊臣家の人物という噂が流れたが、それも切支丹の期待があるだろう。


有馬家は晴信の息子の有馬直純が家督を継承した。直純は妻が家康の養女・国姫であり、家康に近侍していたことから、有馬家の家督相続と所領相続が認められた。家康の側近の長谷川藤広がお咎めなしになることも含め、岡本大八事件はコネクションが物を言う不公正なものであった。

ここには江戸幕府の庄屋仕立てという特徴がある。江戸幕府の支配機構は三河以来の大名としての徳川氏の機構をそのまま転用したものである。村社会的な要素が強い。これは以前の幕府である鎌倉幕府や室町幕府と異なる。鎌倉幕府や室町幕府は政所、侍所、問注所という幕府の機構を用意していた。


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