マードレ・デ・デウス号事件
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レオ林田助右衛門はマードレ・デ・デウス号事件(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)に参戦した。これは有馬晴信がポルトガル貿易船マードレ・デ・デウス号事件を焼き討ちした事件である。発端は晴信の朱印船が慶長一三年(一六〇八年)にマカオに寄港した際に起きた。朱印船は伽羅木購入のため、チャンパ(ベトナム)へ派遣した貿易船であった。
朱印船の水夫が酒場でポルトガルのマードレ・デ・デウス号の船員と口論した。口論は乱闘に発展し、マカオ司令官のアンドレ・ペソアが鎮圧し、日本人側に約六〇名の死者が出た。朱印船の積み荷も奪われてしまった。晴信は当然のことながら激怒した。
ペソアは慶長一四年五月二八日(一六〇九年六月二九日)に長崎に来着した。ペソアは駿府の徳川家康にマカオの事件を釈明し、通商条件を改善しようとした。しかし、長崎奉行の長谷川左兵衛藤広はマカオの事件をそのまま説明したら、家康が激怒し、貿易停止となりかねないと考え、ペソアを説得し、ペソアの書記官を駿府に表敬することにとどめた。
これに対して在日ポルトガル商人は藤広に不満を持っていた。藤広はポルトガル船が長崎に貿易にやって来ても、幕府の許可なく勝手に取引のやり方を変えたり、勝手に品物を自分で買ったりしていた。ポルトガル商人はペソアに苦情を出し、ペソアは改めて駿府を訪問する意向を示した。
これに慌てた藤広は晴信を唆した。晴信はデウス号への報復を家康に願い出て、家康は日本の立場を強くするものと判断して許可した。デウス号事件は都合の悪い事実に蓋をしようという公務員体質が引き起こしたものであった。
晴信は慶長一四年一二月一二日(一六一〇年一月六日)に兵船三〇艘と千二百人の兵を動員し、デウス号を攻撃した。戦闘は四日間続き、レオ林田助右衛門も奮戦した。デウス号は大砲等で反撃し、有馬側も大きな損害を出した。とうとうペソアは火薬庫に火を放つよう命じて船を爆破させた。デウス号は沈没し、乗組員三百人が水死した。昭和になって大砲が引き揚げられ、奈良県にある天理大学付属図書館に収蔵された。
デウス号事件は江戸時代初期の収賄事件である岡本大八事件の序章になった。晴信のデウス号攻撃には幕府から目付として本多正純家臣の岡本大八(洗礼名パウロ)が同行していた。晴信はデウス号攻撃の恩賞を期待していた。そこに大八が付け込んだ。
「幕府はポルトガル船を沈没させた功績の褒美として晴信殿の旧領地を戻そうとの動きがある」
大八は晴信に虚偽を述べた。有馬家は戦国時代に龍造寺隆信に領土を削られていた。竜造寺家の領土は鍋島家が継承していたが、そこを有馬家に戻そうという晴信にとって悲願となる話である。
大八は恩賞を確実にするために本多正信らに働きかけるとして金銭を要求した。大八は家康の偽の朱印状を用意して晴信を信用させ、六千両をだまし取った。当然のことながら、恩賞の連絡はなく、晴信は自ら正純に談判したところ、大八の詐欺が露見した。




