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伴天連追放令

有馬晴純の息子が有馬義貞である。義貞の代になると有馬氏は大友宗麟や龍造寺隆信、西郷純堯の圧迫で衰退していった。義貞の息子が有馬晴信である。義貞も晴信も切支丹大名である。晴信は当初、父の反発もあってキリスト教を弾圧する側であった。しかし、ヴァリニャーノから洗礼を受けて熱心な切支丹になった。そこには龍造寺隆信の勢力拡大への危機感があった。


晴信は龍造寺と対抗するために島津とも連携した。有馬と島津連合軍は沖田畷の戦いで、龍造寺軍を迎撃した。イエズス会が晴信に提供した大砲も威力を発揮し、大軍の龍造寺軍を撃退し、隆信を討ち取った。この恩賞として晴信は天正一二年(一五八四年)に浦上村をイエズス会に寄進した。有馬領では南蛮寺の建設や日本人司祭の育成が進んだ。


切支丹大名のマイナス面として、領内の寺社の破壊と領民への信仰の強制がある。宣教師は領内の寺院や神社を破壊した。これまで宣教師が受けていた攻撃を返したという側面がある。大名には寺社の既得権益を破壊し、年貢収入を増やすという狙いがあった。領民への切支丹改宗の強制に対して、意外にも彼らの多くは喜んで従った。彼らにとっても寺社は既得権益に胡坐をかいた搾取者であったからである。寺社領を没収して農民に分配することは大歓迎された。


有馬氏家臣のレオ林田助右衛門は敬虔な切支丹になった。地球が球形であるとの宣教師の話に感銘を受けたためである。

「あの宣教師殿の話を伺ってから、拙者は切支丹になろうと決めた」

宣教師が教会とともに学校や病院、孤児院を建設し、運営していることも感心した。宣教師は一夫一妻制を守るように説いており、女性信者も多かった。


キリスト教に対する最初の弾圧は豊臣秀吉の天正十五年(一五八七年)六月一九日の伴天連追放令である。秀吉は九州征伐で長崎や浦上が教会領になっていることや日本人が奴隷としてポルトガル商人に売られている事実を知った。驚いた秀吉はイエズス会の宣教師に詰問した。


「ポルトガル人が日本人を奴隷として買うのは、異教徒の日本人が売るからです。私どもパードレは大いに悲しみ、防ごうと尽力しています。殿下が諸大名に日本人を売ることを禁止して、奴隷の売人を厳罰に処すれば容易に停止できます」


ところが、秀吉の対応は的外れであった。秀吉は伴天連追放令を出し、教会領を没収した。日本人が奴隷として売られていたことは現代の人権感覚からすればショッキングである。しかし、朝鮮出兵では日本人が朝鮮人を多数日本に連行している。秀吉に人権感覚があった訳ではない。重要なことは日本人が奴隷として売られているから伴天連追放令を出すことは的外れである。


宣教師の回答は正論である。悪徳商法は売る側の責任が重大であり、蛇口を止めることが効果的な対策になる。これは人身売買だけではない。詐欺商法や依存性薬物も同じである。ところが、日本では購入する側の自己責任を強調し、政治は売人を放置する怠慢をごまかしがちである。


伴天連追放令は宣教師に二十日以内に日本から退去することを命じたが、秀吉は貿易を重視したために不徹底なものになった。有馬氏の領内のキリスト教信仰の状況は変わらなかった。この状況は徳川家康の天下になっても変わらなかった。


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