レオ林田助右衛門
レオ林田助右衛門は江戸時代初期の肥前有馬氏の家臣である。妻のマルタ林田、娘のマグダレナ林田、息子のディエゴ林田とともに一家で切支丹であった。江戸幕府のキリスト教弾圧の中で棄教を拒否して殉教した。
林田氏は南北朝時代に林田隠岐守が南朝方の武将として活躍し、室町幕府軍を退けた。林田隠岐守は領主として独立性を保ち続けたが、後の世代になると戦国大名有馬氏の被官になる。有馬氏は藤原経澄が肥前国高来郡に地頭職を領し入国したことが始まりである。島原半島南部の国人から島原半島一帯を支配する戦国大名に成長した。
有馬氏家臣の林田氏を藤原経澄に随従したとする見解である。しかし、林田氏の祖の林田泰範は従五位下・肥後守になっており、地頭の家臣になることはバランスを失する。南北朝時代には林田隠岐守が独自に活躍している。このため、林田氏が有馬氏の家臣になった経緯は、戦国大名の国人被官化の文脈で説明されるべきだろう。
林田氏は有馬氏家中の中で林田衆として存在感を持った。衆は在地の小領主によって構成される地縁・血縁集団である。兵農未分離の段階であり、農民兵が多かった。武士も田畑を耕し、山で炭を焼いた。武士の妻も牛馬の世話をした。
有馬氏は勢力を拡大する中で肥前国杵島郡を拠点とした大村氏と衝突した。大村氏も国人領主から成長した戦国大名である。有馬氏と大村氏は文明六年(一四七四年)、中岳合戦で激突する。この戦いで有馬氏が勝利し、大村領の長崎や浦上が有馬領になる。両者は文明一二年(一四八〇年)に和睦し、長崎は大村領に戻されたが、大村氏は有馬氏への従属下に入った。
有馬晴純は大村氏を完全に従属化に置くため、次男の純忠を大村純前の養子にした。この中で林田衆も一部が大村氏の配下に移る。純忠は天文一九年(一五五〇年)に大村氏の家督を継承した。純忠は永禄六年(一五六三年)に日本最初の切支丹大名になった。洗礼名はドン・バルトロメオである。
大村氏は伊佐早を拠点とした西郷純堯から度々侵攻を受けた。熱心な仏教徒でキリスト教を激しく嫌ったことが影響している。純堯は有馬氏の配下であったが、永禄六年(一五六三年)に離反した。佐賀の龍造寺氏が勢力を増しており、龍造寺氏に乗り換えた。純堯は天正二年(一五七四年)に大村領に侵攻した。大村純忠は触れを出して配下の林田衆を動員した。林田衆の活躍で大村方が勝利した。
純忠は天正八年(一五八〇年)に長崎の地をイエズス会に寄進した。ここには純堯らの侵略に対する避難場所を設けるという積極的意味があった。主権国家の感覚で植民地になるというような見方は一面的である。逆にイエズス会側に寄進を受けることに反対意見があった。清貧に反すると。イエズス会による長崎の統治も実質的にはイエズス会と商人代表との共同統治であり、植民地というよりも自治都市に近い。




