畠山重忠は上棟式で馬を曳きたい
鶴岡八幡宮寺の社殿は若宮から遷宮したばかりの仮設の建物であった。重忠は本格的な社殿建築を行うことを提案した。
「鶴岡八幡宮寺は我々の魂の拠り所となる。坂東武士の精神を結集し、この地を新たな武士の都として輝かせよう」
問題は鎌倉には適切な大工が存在しないことである。重忠は七月三日に武蔵国の浅草から工匠を呼び寄せた。当時の浅草は江戸湾の奥の入り江に当たり、浅草湊のある交通の要衝であった。浅草にある浅草寺は推古天皇三六年(六二八年)に遡るという歴史ある寺院があり、天慶五年(九四二年)に七堂伽藍が整備され、雷門が創建された。浅草には寺社建築の知見が蓄積されていた。
浅草の工匠は七月八日に参上し、社殿の造営が開始された。御神体を仮殿に遷し奉った。
「八月一五日に正殿に遷すため、それ以前に造り終えるように」
頼朝は重忠に命じた。
社殿の柱や梁などの骨組みは順調に組み立てられ、棟木という木材を取り付けるだけになった。棟木を取り付ければ棟上げ(むねあげ)になる。重忠は七月二〇日に上棟式を行うことにした。上棟式は棟上げを終えられたことに感謝し、最後まで無事に建物の完成を祈る儀式である。
上棟式の日は華やかな飾り付けが施され、多くの人々が集まっている。期待と興奮が空気を満たしている。重忠は頼朝を境内の当方の仮小屋に案内した。御家人達は頼朝の周囲に伺候した。
上棟式では最初に曳綱の儀を行った。綱を引く儀式であり、重忠の高らかな掛け声が響いた。続いて槌打の儀である。澄んだ槌音を響き、棟木が正式に据えられた。
上棟式のメインイベントは工匠への馬の授与である。当時は貨幣経済がまだ浸透していなかった。朝廷は貨幣鋳造を止めており、日宋貿易で宋銭が西日本に普及し始めたばかりである。工事代金も馬などの物で支払われた。
頼朝は義経に工匠に与える馬を曳く役割を義経に命じた。
「残念ながら馬の下手を曳く者がいません」
義経は渋った。
「畠山次郎がいるのに、どうして相応しい者がいなと言うのか、馬を曳く役目が卑しいものと考えて渋っているのだろう」
頼朝の発言に義経が恐れ入り、すぐに座を立って馬を曳いた。ここには頼朝と義経の意識の差異がある。頼朝は義経を御家人の一人と位置付ける。これに対して義経は頼朝の弟、源氏の御曹司としての扱いを望む。このギャップは埋められることはなく、義経の悲劇につながる。
義経が曳いた馬の下手は重忠が曳いた。
「この馬を工匠に贈ろう。新たなる社殿が完成することを祈る」
重忠が工匠に馬を贈る様子は、彼の誠実さと感謝の気持ちを示していた。工匠達は重忠の善意を受け、更なる励みとした。
「この馬には大変感謝します。我々はこれを励みに、より一層の精進を致します。新しい社殿を完成させるために、全力を尽くします」
社殿は予定通り竣工し、人々の喜びの中で祝福の儀式が執り行われた。新たなる社殿は、歴史と伝統を守る場として、この地に誕生した。
治承五年(一一八一年)は七月一四日に改元し、養和元年となった。重忠は京からの書簡で改元を知った。部屋には季節の花が飾られ、落ち着いた雰囲気が漂っている。郎従の一人、真鳥日向守が控えている。
「日向、これを読んでみろ」
重忠は真鳥日向守に書簡を渡した。
「改元でございますか」
「そうだ。新しい元号、養和だ。治承という激動の時代が過ぎ去り、新たな時代の幕開けを迎えるのだな」
「この改元についてどうお考えですか」
「治承の時代は、数多の戦と変革に満ちていた。我々武士にとっては、己の力を示す機会でもあったが、多くの命が失われたことも忘れてはならない」
重忠は遠くを見つめるように言った。
「確かに、戦の犠牲は大きいものでした」
「養和という元号は、「養い、和らげる」という意味を持つ。これは、我々が戦の後の平和を築き、民を養い、安らぎを与える時代が来たことを示しているのではないかと思うのだ」
「なるほど、そう考えると、新たな元号には希望が込められているのですね」
「そうだ。頼朝公のもとで鎌倉を新しい都とし、武士が力を合わせて新しい時代を築くのだ。我々の使命は、ただ戦うことではなく、平和を守り、民を豊かにすることだ」
重忠は北条時政の娘の桜を妻に迎えた。重忠と桜の婚姻は、その時代の政治的な関係を象徴するものとして注目を集めた。時政の娘の政子は頼朝に嫁いだ。政子と桜は姉妹であり、重忠と頼朝は北条氏を通して義兄弟となる。
北条氏は平直方の子孫と称している。直方は長元元年(一〇二八年)六月に起きた平忠常の乱の鎮圧を朝廷から命じられた。これは忠常が安房国の国府を襲撃したもので、反乱は上総国や下総国にも広がった。天慶二年(九三九年)の平将門の乱以来の関東での大反乱であった。
直方は長元三年(一〇三〇年)になっても反乱を鎮圧できずにいた。朝廷は七月に直方を更迭し、新たに河内源氏の源頼信を追討使に任命した。頼信は反乱を鎮圧し、頼信と子の頼義の武名は大いに轟いた。
頼義は長元九年(一〇三六年)に相模守になった。そこで頼義は平直方の婿に迎えられ、鎌倉の地を譲り受けた。これは河内源氏が関東に進出するきっかけとなった。この経緯は頼朝が鎌倉を本拠地と定めた理由の一つになった。頼義と平直方の娘の子が八幡太郎義家である。時政と頼朝の関係は直方と頼義の関係に重ね合わせることができる。
重忠は結婚を通じて、北条氏との関係を深めることを期待した。祝言の日は鎌倉の重忠の屋敷には華やかな雰囲気が漂っていた。多くの武士が招かれ、宴が盛大に行われた。
重忠は桜との出会いを心待ちにしていた。桜は立派な着物を身にまとい、優雅な笑顔を浮かべていた。重忠は桜の美しさに息を呑み、心の中で称賛した。初めて会ったその瞬間から、二人の間には特別な絆が生まれた。祝言の儀式が執り行われ、二人の結びつきが祝福された。重忠と桜は静かに座り、お互いの存在を楽しんでいた。
重忠と桜は互いに挨拶を交わした。
「重忠様、この度はご縁をいただき、誠に光栄に存じます」
桜は優雅に微笑みながら言いました。
「こちらこそ光栄です。お会いできて嬉しく思います」
桜の言葉に重忠の心が弾み、笑顔を浮かべた。
「この鎌倉では、いかがお過ごしでしょうか?」
「鎌倉の景色は美しく、皆様も温かく迎えてくださり、心身ともに癒されております」
桜は優雅な仕草で答えた。
「ここで心安らぐ時を過ごしていただけることが、何よりも嬉しいです」
重忠は笑顔を増した。
「重忠様のお心遣いに深く感謝いたします。」
桜もまた微笑みながら答えた。二人の会話は、互いの思いやりと尊敬を示すものであり、その場にいる全ての者がその絆に感銘を受けた。
頼朝は寿永元年(一一八二年)四月五日に江の島に出かけた。重忠が供をした。江の島は相模湾に浮かぶ島であった。後の健保四年(一二一六年)一月一五日に江の島と片瀬の間の海底が隆起し陸繋島になった。陸繋島は陸地と陸続きになった島である。
江の島の奥には海食洞窟「岩屋」がある。元々海中にあって波が侵食していた。それが地震等により隆起して海面上に生じた洞窟である。神秘的な雰囲気から宗教的な意味合いを持たされた。奈良時代には役小角、平安時代には空海(弘法大師)や円仁が修業したと伝えられている。
頼朝は文覚に弁才天を勧請させ、奥州平泉の藤原秀衡調伏を祈願させた。秀衡は養和元年(一一八一年)八月に従五位上・陸奥守に叙任された。これは秀衡に頼朝を追討させるための平家の人事であった。秀衡は平家の思惑に乗らず、中立によって平和と繁栄を守ったが、頼朝は奥州藤原氏を警戒し続けた。頼朝は文覚の調伏に臨席し、鳥居を奉納した。
頼朝と北条政子の長男の万寿が八月一二日に誕生した。後の鎌倉幕府二代将軍の頼家である。重忠は八月一三日に誕生祝いで御所に参上した。手には木箱を持っていた。
「お祝い申し上げます。若君の誕生、誠にめでたいことです」
重忠は頼朝の前で深々と頭を下げた。
「ありがとう。万寿が誕生したことで、我が家にも新たな希望が生まれた」
重忠は持っていた木箱を丁寧に開け、美しい守り刀を取り出した。
「この守り刀を若君に献上いたします」
守り刀は懐中や帯の間に挟んで携帯する護身用の短刀である。守り刀は魔物や妖怪から身を守り、健やかな成長を見守る物として贈る風習があった。
「この守り刀は万寿にとって、大切な護りとなるであろう。健やかに成長し、立派な武士となるのだ」
頼朝は万寿に話しかけた。
「若君がこの守り刀とともに健やかに成長されることを、私も心から祈っております」
重忠も言った。
「次郎の忠誠と心遣いに感謝する。我が子が大きくなった暁には、次郎のような立派な武士となれるよう、導いてほしい」
「はい、鎌倉殿。若君の成長を見守り、尽力いたします」




