高松松平藩
寛永一九年(一六四二年)に松平頼重が一二万石で入封し、高松松平家が幕末まで続く。頼重は御三家の水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男である。頼重は家臣を知行取りから蔵米取りに転換した。これにより、高松城下に家臣が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がった。頼重は京都粟田口の陶工作兵衛を招いて理平焼を作らせた。京都の織物師北川伊兵衛常吉には保多織(讃岐上布)を作らせた。
江戸幕府四代将軍の徳川家綱は寛文七年(一六六七年)に諸国に巡検使を派遣した。巡検使は陸地の諸国巡検使と海岸の海辺巡検使の二種類存在した。大坂船出頭の高林又兵衛直重は海辺巡検使として林田村を視察した。視察内容は『海上湊記』にまとめている。林田村には家が一一〇軒存在したと記録している。
林田村では享保四年(一七一九年)の秋に蝗害が発生し、稲が食われてしまい、大飢饉となった。村人達は山から山菜をとって食べた。それもなくなると藁を刻んで石臼にかけて粉にして食べた。
高松藩は享保七年(一七二二年)に林田浦の舟番所を坂出浦八軒屋に移転した。寛保三年(一七四三年)には林田沖での漁業に従事する丸亀御供所の漁民が船一艘につき一〇匁の運上銀を出している。
江戸幕府では八代将軍徳川吉宗の孫の白河藩主・松平定信が老中になり、寛政の改革が始まる。定信のブレーンに讃岐国出身の儒学者の柴野栗山がいる。しかし、寛政の改革は現実離れした政策が多く、混乱を招いたものも多かった。「白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」と皮肉られた。
寛政元年(一七八九年)の棄捐令は旗本御家人の借金を棒引きにしたが、恐慌を招いた。蔵米取の旗本らが札差から借りていた債務を一七八四年(天明四)以前は元金・利子とも破棄し、八五年以後を年利六分に下げ年賦償還とした。
旗本御家人は札差への借金漬けになっており、その救済を意図していた。しかし、これは目の前の借金問題を何とかしようということしか考えない近視眼的な政策である。以後の札差は貸し渋りをすることで、逆に旗本御家人は資金繰りに困ることになった。
「倹約を指図すれば、武家も町人もひれ伏して従うと思い込んでいる」(山本一力『おたふく』、文春文庫、二〇一三年、一五八頁)。この前近代的な感覚は二一世紀の日本政府も変わっていない。西村康稔経済再生担当相は二〇二一年七月八日、酒類提供の停止に応じない飲食店に対し、融資を行う金融機関から働きかけを求める方針を表明した。
札差は棄捐令によって莫大な債権を失った。資産がなくなったので、もはや旗本御家人がどれほど金に困っていても貸し出しを求めても応じられない。これは痛快である。日本では大変な目に遭った人がそれでも頑張ることを美徳とするような風潮がある。しかし、マイナスなことがあれば、それを反映することが当然である。頑張ることの強要は悪徳である。
弘化四年(一八四七年)に綾川が決壊し、林田村は洪水被害を受けた。綾川は讃岐山脈最高峰の竜王山北麓付近を源流とし、林田村から瀬戸内海に注いでいた。
林田村は讃岐和三盆の産地として栄えた。和三盆は四国産の砂糖である。和三盆は「研ぎ(とぎ)」と言われる砂糖の結晶を台の上で研ぐという日本独自の製造工程がある。盆の上で三日間研ぐために和三盆と呼ばれる。和三盆は原料に含まれる栄養素を残したまま加工されるため、カルシウム、リン、カリウム、鉄などのミネラル分が含まれている。
サトウキビは南西諸島に栽培地が限られていたが、高松藩では砂糖作りを研究していた。薩摩藩奄美大島出身の関良介が、お遍路の旅に出たが、高松藩内で病気にかかり、行き倒れになってしまった。それを医師の向山周慶が助けて治療した。良介は砂糖作りの経験があり、命の恩人の周慶の頼みを聞いて、藩外へ持ち出し禁止のサトウキビを讃岐地方で育てた。これが讃岐和三盆の始まりである。
林田村の甘藷作付け率は元治元年(一八六四年)には六七パーセントであり、一七〇挺の砂糖車を持っていた。砂糖車はサトウキビの圧搾装置で、明から琉球に伝わった。
高松藩は鳥羽伏見の戦いを幕府側で戦った。鳥羽街道で薩摩藩・長州藩兵と戦い、退却した。明治維新は民衆に新しい政治体制への期待を持たせたが、すぐに裏切られることになる。明治三年(一八七〇年)一月に林田村の農民達が村吏の不正に反対し、御趣意林などの濫伐を始める。高松藩は一月一四日に綾竹太郎と中条澄靖に衆徒鎮静を申しつけた。農民は白峯寺住職作成の嘆願書を提出した。綾竹太郎と中条澄靖は一八日から林田村で実地検分した。高松藩参政の杉山直記は弾圧に方針を転換し、一月二三日に農民の中心人物を逮捕した。
廃藩置県で讃岐国は香川県になる。一八九〇年の町村制施行で阿野郡林田村となる。一九四二年に坂出町に編入され、その後に坂出市となった。林田の名前は坂出市林田町として残っている。




