生駒藩
天正一五年(一五八七年)に生駒親正が讃岐国を治めることになった。親正は香東郡野原郷を高松と改め、高松城を築いた。高松城は海辺の城である。山城と比べて防御に向いていないが、戦争よりも内政の拠点として重視した。外堀に中堀、内堀の三つの堀には瀬戸内の海水を引き込んでいる。高松城は別名「玉藻城」とも呼ばれ、日本三大水城の一つに数えられる。また、支城として丸亀城も築いた。
秀吉の晩年には中村一氏や堀尾吉晴と共に三中老に任命された。関ヶ原の合戦では病気を装って参加しなかった。丹後国田辺城攻めには家臣を代理として派遣した。一方で息子の生駒一正を東軍に参加させ、本領が安堵され、讃岐高松藩が成立した。一正は改めて検地を行い、高松藩は十七万石になる。
生駒氏の家臣団は親正の譜代の美濃衆や近江衆と現地勢力の讃岐衆らで構成された。讃岐衆には林田氏の名前も見られる。阿野郡林田郷を地盤とした勢力である。生駒藩では知行制が温存され、高松城下に屋敷を持つ者は少なかった。自分の領地に屋敷を構えて生活している国人領主も多かった。
四代藩主の生駒高俊は幼少で家督を相続した。当主が幼少であることを口実として減知転封となる可能性もあったが、外祖父の藤堂高虎が後見することで回避した。高虎は藩士を高松藩に派遣して、藩政を補佐させた。その一人が西嶋八兵衛で、土木や治水で活躍した。八兵衛は慶長元年(一五九六年)生まれ。満濃池の改修が代表的な業績である。
満濃池は弘法大師空海が弘仁十二年(八二一年)に改修した溜池である。空海は唐で学んだ水利技術を用いて改修した。空海が学んだ唐の技術も外来のもので、仏教僧・法顕がスリランカの技術を中国に伝えたものである。その後、満濃池は決壊や堤防老朽化で四五〇年間以上壊れたままになった。
積極的な新田開発によって高松藩は慶長六年の約一七万石の石高が寛永一七年には約二三万石に増加した。この新田開発は綾川河口東岸に開発可能な広い場所を持つ林田村も対象になった。林田村の寛永一六年の石高は一四八六石余。このうち、生駒家家臣が自分用の新田とした石高が約九三石であった。
生駒家は、お家騒動の生駒騒動が起きる。藤堂高虎が生駒家を後見した際、一門譜代の力を弱めるために、外様家臣の前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えた。ところが、この二人が藩政を牛耳り、専横を極め、一門譜代の家臣が反発した。前野・石崎が幕府に訴え出て、生駒藩は寛永一七年(一六四〇年)に改易された。
八兵衛の心にはあふれる水のように悲しみが広がった。八兵衛は対立が深刻化する前に高松藩から手を引いていた。これにより、津藩が生駒騒動に巻き込まれることはなかった。津藩に戻った八兵衛は雲出井用水開削などの水利事業で活躍した。津市丸之内商店街には西嶋八兵衛の銅像がある。




