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長宗我部元親

戦国時代末期には長宗我部元親が四国の覇者になった。元親は土佐の領主の若君であったが、「戦知らずの姫若子」と呼ばれ、侮られる日々を過ごしていた。しかし、それは才能を隠す擬態であった。これは「うつけ」の織田信長に重なる。


元親の強さは一領具足の兵士を編成したことにある。一領具足は半農半武の兵士である。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に一領ひとそろいの具足(武器と鎧)を田畑の傍らに置いていたことから一領具足と呼ぶ。


一領具足は信長の職業軍人政策とは一見すると真逆に見える。その後の歴史から遡って見ると一領具足は後進的な制度に見えるかもしれない。しかし、一領具足は単なる半農半武ではない。農作業中でも即座に出陣できるように武器と鎧を準備しており、戦争に集中できるように最適化されている。信長の職業軍人が平時は消費者か事務作業をしているところ、一領具足は農作業しているという違いがある。土佐は貨幣経済が普及しておらず、消費者として職業軍人を維持できないという違いによる。


元親の躍進は信長の躍進と重なるところがある。しかし、当の信長からは「鳥なき島」の蝙蝠と低い評価であったことは皮肉である。信長の本質は中世的な体制を壊す近世大名であり、中世的な要素の強い長宗我部家を高く評価できなかったのだろう。しかし、この長宗我部軽視は本能寺の変の動機になり、信長の痛恨事になった。


元親にしてみれば他人からの評価が上がろうと下がろうと構わなかった。元親は地域で自立した領国を目指した。この点は毛利元就と似ている。天下人を目指す織田信長や羽柴秀吉とは相容れない。この地域で自立するという姿勢は好感が持てる(但し、四国内の他の領主から見れば元親は侵略者であるという矛盾はある)。ひたすら右肩上がりの成長を目指す姿勢とは対照的である。


土佐を統一した元親は阿波国や伊予国に兵を進めた。天正六年(一五七八年)には讃岐国に侵攻した。賤ケ岳の戦いと並行して四国では引田の戦いが起きた。讃岐国で秀吉配下の仙石権兵衛秀久と長宗我部元親が激突した。仙石は緒戦で勝利するが、それは元親の想定内であり、手痛く敗退した。兵力でも戦術でも元親は秀久を圧倒していた。元親は名将である。鉄砲を多数配備しており、遅れた田舎武士ではない。


仙石には手痛い敗北であった。若者の猪突に流されたことが敗因である。仙石自身も猪突によって武功を立てており、自分が偉くなったからと言って抑える側に回るのは不公平という思いがあった。しかし、その結果、名をなすこともなく散っていく若武者も出る。仙石は後に九州でも同じような失敗を繰り返し、三国一の臆病者と笑われることになる。学習しない人間ならば、つまらない。


一方で絶望的な状況でも玉砕思想にならない点は評価できる面もある。何とか落ち延びようとする。ここには後に三国一の臆病者と謗られながらも逃げた武将の哲学がある。単純に切り捨てられない。


羽柴秀吉は天正一三年(一五八五年)に四国攻めを行う。讃岐国には備前・美作の宇喜多秀家、播磨の蜂須賀正勝・黒田孝高が屋島に上陸した。羽柴秀長と秀次の軍勢は阿波に上陸し、木津城と牛岐城を攻略した。小早川隆景と吉川元長は毛利勢を率いて伊予国に上陸し、七月十七日までに高尾城を攻め落して伊予をほぼ平定した。


元親は豊臣勢が上陸しそうな地点へ兵力を配置し迎え撃ったが、圧倒的な兵力により各個撃破された。元親は降伏し、土佐一国のみが安堵された。阿波国と讃岐国、伊予国は割譲された。


戦後の四国国分で仙石秀久が讃岐国の大半約十万石を治めることになった。秀久が讃岐に入った時に激しい農民弾圧を行った。秀久は一揆の首魁を捕らえて煮殺した。農民は恐怖と絶望の中にいた。遊びも楽しみも知らず、知っているものは残酷な仕打ちだけであった。安住せずに離散する者が続出した。秀久は秀吉の最古参の家臣で、前線で戦い続けた。そのため、武備優先で領国を豊かにする余裕はなかった


秀久は天正一四年(一五八七年)、九州征伐の先陣の軍監になる。秀吉は持久戦を命じたたが、秀久は攻撃に出た。同じ先陣の長宗我部元親・信親父子は反対したが、秀久が強行した。その結果、戸次川の戦いで島津家久に大敗する。家久の強さは神がかっていた。時間が経つごとに自分が強くなっていくのを感じた。視覚が研ぎ澄まされ、聴覚が鋭くなっていった。


秀久は軍監として撤退の取りまとめをせず、自己の家臣団だけで領国に引き上げてしまった。「仙石は四国を指して逃げにけり 三国一の臆病の者」と詠まれた。これが秀吉の怒りを買い、秀久は改易となった。秀久は真夜中に悲鳴を上げ、冷や汗でべとべとになって悪夢から目を覚ました。


元親は引田の戦いで秀久を叩きのめした。しかし、その秀久のせいで島津攻めでは痛恨の被害を出してしまう。嫡男の死で元親は何を食べても美味しく感じなかった。野菜は金属臭く、米は無味であった。槍働きばかりが頭にある秀久が原因で長宗我部が没落してしまうことは忍びない。江戸時代に残ったのは仙石家だった。歴史の不合理を感じる。


どんな悲惨な状況に陥っても前向きに頑張る姿勢が明暗を分けたならば、頑張ることを強要する特殊日本的ガンバリズムの世界になってしまう。最早、焼け野原から経済大国にしたような前に進むことしかできない姿勢を自慢する時代ではない。


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