関白相論
天正一三年(一五八五年)に朝廷で関白相論が起こる。関白の地位を巡って二条昭実と近衛信輔(後の信尹)が対立した。秀吉の官位上昇がトラブルの発端である。
これまで関白は藤原北家を祖に持つ五摂家が持ち回りで就任していた。当時の関白は昭実であったが、一年後くらいに左大臣の信輔に譲ることが予定されていた。秀吉は内大臣であったが、天下人としてもっと高い官職を望んだ。朝廷は右大臣就任を打診したが、秀吉は拒否した。
「右大臣だった織田信長は本能寺の変で自刃したことから、右大臣は縁起が悪い。左大臣への昇進をお願いしたい」
秀吉の希望を通すと信輔は左大臣を辞任しなければならなくなる。しかし、近衛家には太政官の官位を持たない人物が関白に就任した先例はない。このため、信輔は左大臣の時点で関白に就任しようと昭実に関白辞任を求めた。
「関白に就任してからまだ一年も経っておらず、そのような短期間に関白を辞職した先例はない」
昭実も先例を出して拒否した。関白相論は当時の訴訟手続きに従って三問三答という方式で行われた。これは訴状と陳状のやりとりを三度行うものであった。それでも決着の見通しは立たなかった。朝廷では信輔派と昭実派に分かれて大きな議論になった。この争いに秀吉が介入し、自分が関白になってしまう。秀吉は近衛前久の猶子となり、七月一一日には関白宣下を受けた。秀吉に関白の座を横取りされたことになる。
関白の地位を奪われたことは信輔にとって大きな衝撃であった。武家の格好を好んだ信輔は公家社会を腹の底から軽蔑している一方で、誇りも抱いていた。現代人から見ると関白の地位は虚名である。武家関白は秀吉の実力あってのもので、関白の地位は本質ではない。しかし、当時の人々の感覚は現代人と同じではなく、現代人からは理解しにくい価値があった。この経験が信輔のルサンチマンとなり、その後の奇抜な行動につながった。
秀吉が関白に就任したことで武家関白制が始まった。これまでの武家政権の鎌倉幕府や室町幕府は武家の棟梁が征夷大将軍に就任しており、それと比べてユニークである。秀吉が征夷大将軍ではなく、関白に就任したことには消極的選択と積極的選択の面がある。
まず消極的選択には二つの面がある。第一に征夷大将軍は源氏でなければ就任できず、農民出身の秀吉は征夷大将軍になれなかったとする。しかし、源氏以外の者でも征夷大将軍に就任した例はある。これは江戸時代に徳川将軍家を高めるために強調されたことである。第二に当時は室町幕府の伝統から将軍職が足利氏の家職のように受け止められており、権力者だから就任するというものではなかったという感覚があった。
積極的選択として武家にとって征夷大将軍以上に就任のハードルがある関白になることで過去の武家の棟梁以上の権威を誇示したという面がある。平清盛や足利義満も太政大臣であって、関白にはならなかった。
秀吉は関白就任に際し、五摂家の所領を加増して慰撫した。関白となった秀吉は七月十五日に親王准后間の座次相論を裁決した。秀吉のシンクタンクは公家の問題にも対応できる能力を持っていた。
秀吉は天正一六年(一五八八年)頃から通貨の発行に取り組む。これは織田政権からの懸案の解決であった。安国寺恵瓊が織田信長の高転びを予言した話は有名である。織田政権内部でも高転びの可能性を自覚していた。貨幣の流通不足から行き詰まりである。元々、信長は撰銭令を出し、悪貨の交換比率を定め、悪貨も流通させることで銭貨流通量の絶対的不足に対応しようとした。根本的解決は後の江戸幕府の通貨発行で実現する。
信長は米の通貨としての利用を禁止した。飢饉や戦争などで米の食物としての需要が増えると通貨としての供給が減少され、経済に影響を及ぼすためである。これに対して秀吉は逆に米を代用貨幣とすることで銭不足に対応した。秀吉は太閤検地を進め、石高制を採用した。




