長久手の戦い
先発と次発の恒興と長可は三河に向けて兵を進めていた。恒興は道すがらの百姓に「勝利したならば良くしてやろう」と言って道案内や情報を求めた。これに対して家康は「勝利を得れば、三年年貢を免除しよう」と言って道案内や情報を求めた。メリットが具体的な家康に情報が集まった。長可は村々に火を放って進軍したため、羽柴軍への反感が高まった。
途中に岩崎城があった。岩崎城は土塁や空堀を備えた中世城郭である。城主は丹羽氏次である。氏次は織田信長の家臣で、本能寺の変後は信雄に仕えた。しかし、信雄と対立したため、天正一一年(一五八三年)に家康の家臣となった。今回の戦いで氏次は小牧山に出陣しており、岩崎城は弟の丹羽氏重が守っていた。城兵は僅か二百人強であった。恒興は「少しでも早く三河の岡崎を取りたい」と岩崎城を無視して進むつもりであった。
これに対して氏重は四月九日午前四時頃に岩崎城付近を通過する池田軍を発見し、攻撃する。氏重は少しでも足止めすることに意味があると戦いを挑んだ。攻撃されたため、恒興は岩崎城を落城させることに方針転換する。
恒興は岩崎城を三度攻撃し、その度に撃退された。そこに第二隊の森長可が横合いから加勢し、岩崎城を落とした。氏重以下、城兵は全て討ち死にした。岩崎城の戦いの足止めは家康にとって大きな意味のあるものであった。後に家康は「長久手の戦いの一番手柄は池田勢を足止めさせた岩崎城代丹羽氏重である」と評した。家臣の決死の足止めによって貴重な時間を稼ぐことは、関ヶ原の合戦の伏見城の戦いと重なる。
恒興は三河に進軍したかったが、攻城の激戦で消耗した部隊もあった。
「ここで一旦、守りを固めるべきです」
家臣は進言したが、恒興は無傷の部隊を先行させた。家康は大軍を小牧山に動員しており、三河には大した兵力を残しておらず、少数でも速やかに三河に侵攻することを考えた。先に出発した部隊は三河の矢作橋の近くまで到達したが、分散している状態で徳川勢の攻撃を受けることになる。しかも、後続の秀政と信吉は撤退しており、孤立してしまった。
恒興が岩崎城を攻めたことの是非は議論がある。中入りの目的が三河を攻め取ることならば岩崎城を無視して岡崎城に進むべきだったとなる。この場合は岩崎城という後輩に不安を抱え、敵中に孤立する可能性がある。これに対しては九鬼水軍が制海権を有しており、補給面の不安はなかった。逆に中入りの戦略目標を三河攻撃ではなく、家康を引きずり出して叩くことと位置付けるならば必ずしも急ぐ必要はない。
恒興と長可は長久手で家康に戦いを挑んだ。鬼武蔵の勇猛は三河武士にも通用したが、井伊直政隊に狙撃されて討ち死にした。家康は武田家の遺臣の多くを直政の配下にした。旧武田家臣は長篠の合戦の敗戦から学び、鉄砲の技術を極めたものもいた。その技術が発揮された。
長可の討ち死によって徳川が優勢になった。恒興は鞍に銃弾を受け落馬し、安藤帯刀直次の槍を受けて討死にした。恒興は本能寺の変後に剃髪して勝入と号していた。
「坊主首を取っては面目がない」
直次は恒興の姿を知らなかったため、恒興の首をとらなかった。直次は戦い続け、長男の池田庄九郎元助(之助)も倒した。恒興の首は後から来た永井右近直勝が取り、功績になった。恒興の次男の池田輝政は逃げ延び、池田家の家督を継承した。戦場は死体だらけであった。合戦後三年の間は田地が死人の血で浸され、稲は実らなかった。
中入りの総大将の三好信吉は恒興の娘婿である。恒興は祝言で家臣の香西又市を娘に付けた。香西又市は讃岐香西氏の出身で、家が長く続いている者ということで付けられた。香西氏は讃岐国の林田である阿野郡林田郷などを勢力下においた。
この又市も長久手の合戦には信吉配下で出陣していたが、信吉を守って討ち死にした。恒興の討死と同じ日であった。長男の五郎右衛門が跡を継ぎ、信吉に仕え、二百石を拝領した。信吉改め関白秀次の切腹後は、同じ知行で池田輝政に召し出されることとなった。
長久手の合戦は午後二時頃に終結した。家康は四時半頃に北の小幡城へ入った。秀吉は白山林の戦いの敗北を知った秀吉は二万の兵を率いて長久手へ向かっていた。秀吉は小幡城を攻撃しようとしたが、諸将に朝まで待つように言われ思いとどまった。
家康は、家臣から秀吉への夜襲を提案されたが、退けた。家康は夜間密かに小幡城を出て、秀吉に気づかれないよう遠回りをして小牧山に帰った。夜が明けて、このことを知った秀吉は、何らなすすべもなく、兵を率いて帰った。
恒興と長可の戦死は秀吉にとって打撃になった。もっとも秀吉方の武将と言っても織田信長の有力家臣であり、秀吉に対して同僚意識を持っていた。特に恒興は織田信長の乳兄弟である。彼らの戦死は秀吉の政権基盤の確立の上ではプラスになった面があるだろう。
長久手の戦いは家康の戦上手を印象付けた。家康が秀吉に戦で負けなかったことは、後の豊臣政権下での家康の地位向上になり、秀吉没後は天下人に押し上げた。
長久手の合戦の後は戦線が膠着した。秀吉は五月一日に軍を退き、家康も七月中頃に兵を引いた。秀吉は戦争で勝てないならば、政治で勝とうと信雄と単独講和を成立させた。これによって家康には戦いを続ける大義名分がなくなり、終戦となった。小牧・長久手の戦いは局地戦ではなく、四国の長宗我部元親や越中の佐々成政と連動した壮大な秀吉包囲網であった。しかし、家康が兵を引いたことで彼らは孤立し、秀吉に敗れ去ることになる。




