賤ケ岳の戦い
清州会議で市が勝家に嫁ぐことになった。市と娘の浅井三姉妹は勝家の居城の越前国北庄城に移る。浅井三姉妹は義父・勝家に反発し、父上と呼ばなかった。勝家は強面で髭モジャの勇猛果敢な戦国武将であった。鬼柴田の異名を持っていた。織田家筆頭家老の家格を鼻にかけ、羽柴秀吉を成り上がり者と軽蔑する頭の固い人物というネガティブ・イメージもある。
しかし、市や三姉妹への態度は完全に主君に対する家臣のもので、謙り過ぎている。鬼柴田が形無しである。市は三姉妹の冷たい態度を勝家に詫びた。勝家は「爪の先ほどでも自分を好いていただくわけには参りませぬか」と懇願した。市自身も勝家を家族と見ていなかったことを気付かされる。
清須会議は仮初の取り決めに過ぎなかった。秀吉は天正一〇年一〇月に信長の葬儀を大徳寺で強行する。養子の羽柴秀勝を喪主とし、自身が信長の位牌を持ち、信長の後継者であるように振舞った。危機感を覚えた信孝は勝家や滝川一益と結びつき、対抗した。これに対して秀吉は信雄に織田家の家督を継承させ、信孝や勝家、一益を謀反とした。
秀吉と勝家は天正一一年(一五八三年)に賤ケ岳の戦いで激突し、秀吉が勝利した。柴田勝家は「鬼柴田」「かかれ柴田」の異名に相応しく勇猛果敢に砦を攻めるが、老いには勝てなかった。昔ながらの感覚のまま変わらない武将は滅ぶ。
もっとも賤ケ岳の敗因は勝家本人よりも、功を焦った佐久間盛政や撤退した前田利家など配下の武将に負うところが大きい。佐久間盛政は若さ故の猪突で緒戦に勝利したが、敗退する。勝家は盛政に深追いは無用と命じることが精一杯であった。盛政も利家も与力として付けられた武将であって、勝家の直臣ではない。勝家にとっては配下の武将を思い通りに動かせないという制約があった。この点が自らを次の天下人と位置付けた秀吉と、織田家筆頭家老としての分を守った勝家の相違であった。
戦国大名は寄親・寄子という制度が一般的であった。勢力拡大中の戦国大名は家臣が増え続ける。戦争は部隊で行うものである。全ての家臣が主君と家臣という一対一の関係だけでは戦争を行えない。そこで譜代の家臣を寄親、新参の家臣を寄子として新参の家臣を譜代の家臣の家臣に組み入れた。徳川家康が武田家家臣を徳川四天王の井伊直政配下に組み入れて井伊の赤備えを作らせたことが有名である。
しかし、寄親・寄子制度は家臣を強大化させる。下克上される危険性を君主自らが増大させることになりかねない。そこで織田信長は与力という形を採った。前田利家や佐々成政は織田信長の直臣であるが、北陸攻めでは柴田勝家の与力として柴田勝家の指揮命令に従った。柴田勝家は織田信長の権威の下では与力大名を指揮できるが、それを離れると与力大名は柴田勝家に従う義務はなくなる。与力は封建的な主従関係と比べると現代の上司と部下に近い、より近代的な関係である。
秀吉は統治者の視点で戦を進めた。それを見据えた前田利家は兵を退く。「槍の又左」の異名を持ち、槍働きで武功を立てたイメージのある利家であるが、ここでは武勇で勝負せず、政治家になっている。秀吉は利家のような人格者が政権に必要と口説いた。これは正しかった。秀吉没後も利家が生きているうちは、豊臣政権は続いた。最初は槍働きで出世した武将も、ある程度大きくなると政治家に転身する。それができた人物が歴史に名が残る。
賤ケ岳の戦い後に摂津国を領していた池田恒興が美濃大垣一三万石に転封した。摂津国は秀吉の直轄地になる。美濃国は織田家にとって重要な土地であることが転封の大義名分であったが、秀吉には畿内の地盤を拡大したいという本音があった。寿徳は摂津尼崎郡代として三万石の蔵入地の代官になり、尼崎港を管理した。自己は七百石を知行した。




