畠山重忠は富士川で戦いたい
東国の反乱に対して平家は平維盛を大将として追討使を送った。頼朝は平家の軍勢を迎撃するために一〇月一六日に鎌倉を発した。重忠も従軍した。騎馬に跨がり、心には覚悟を持って駿河国に向かった。鎌倉勢は黄瀬川に着陣する。鎌倉勢の陣地は、戦の準備が整った様子を見せていた。武士達は覇気に満ち、勝利を信じて固く立ち向かう姿勢があった。
鎌倉勢は一〇月二〇日の富士川の戦いで勝利した。平家が一方的に退却する呆気ないものであった。平家の軍勢は兵糧が欠乏しており、士気が低く、まともに戦える状態になかった。鎌倉武士の団結と勇気が勝利をもたらし、その喜びに重忠の心は踊った。
富士川の戦いの勝利に気をよくした頼朝は、その勢いのまま上洛しようとした。しかし、御家人達は坂東に戻りたかった。重忠も頼朝を説得した。
「鎌倉殿、富士川の戦いの勝利は大きな成果です。しかし、今は坂東を固めることが最優先です。上洛の時期はもう少し待つべきです」
「重忠よ、私は源氏の名を高め、更なる勢力拡大を目指したい。この機会を逃すわけにはいかんのだ」
「お心はよく理解しております。しかし、坂東を固めることが今後の勝利につながると信じております」
頼朝は重忠の言葉に心を動かされた。
「重忠よ、汝の言葉には理がある。欲望に流されるのではなく、現状を冷静に見極めねばならん」
頼朝は深く深呼吸をし、重忠の意見を受け入れる決断をする。
「鎌倉に戻ろう。坂東を固め、更なる勝利のために努めよう。」
重忠は頼朝の決断に安堵の表情を浮かべ、共に鎌倉へと帰った。
頼朝は相模国府で富士川の合戦の論功行賞を行った。論功行賞は、戦功を上げた武士に対する公平な評価と報酬の配分を行うという点で重要である。これにより、鎌倉殿は自らの支持者を固め、将来の戦いに向けての動機付けを促すことができる。
頼朝は佐々木秀義に近江国佐々木庄を安堵した。佐々木庄は秀義の領地であったが、平治の乱で敗北したため、平家に奪われていた。秀義にとって悲願の領地奪回であったが、この時点では近江国まで頼朝の実効支配力はない。これは鎌倉殿の政治的手腕と権力の拡大を示す重要な一幕である。
富士川の合戦の敗北により、平氏の威信は失墜した。この結果、後白河院政が再開された。この時に讃岐国と美濃国が院分国となった。
「富士川の合戦の勝利は、平氏の威信を大きく揺るがした。その結果、後白河院政が再開され、新たな時代の幕開けとなった」
重忠は家臣の真鳥日向守に説明した。
「しかし、それはどうして讃岐国と美濃国が院分国となることと関係があるのでしょうか」
真鳥日向守は疑問を呈した。
「平氏の威信が失墜したことによる政治的混乱を収拾し、新たな統治体制を築くための措置だったからだろう」
「我々畠山氏にとってはどのような影響があるのでしょうか」
「この出来事は我々にとっても大きな影響を与えます。讃岐国と美濃国が院分国となったことで、鎌倉殿の勢力範囲が変化する可能性があります。政局の変動に適切に対応し、我々の地位を守るためには、今後も注意深く動く必要がある」
鎌倉に戻った重忠は頼朝の邸宅(大倉御所)を建設した。大倉御所は一二月一二日に竣工した。亥の刻(午後九時)に頼朝が御所に移る儀式を行った。和田義盛を先頭に、御家人らの行列が御所に入った。重忠が最後尾になった。
この時のことを吾妻鏡は「しかりしより以降、東国皆その有道を見て、推して鎌倉主となす」と書く。この時から東国の武士達は頼朝を鎌倉主(鎌倉殿)と推戴したとする。鎌倉殿と呼ばれた頼朝は南関東の統治者としてふるまった。頼朝の家来は御家人と呼ばれた。重忠も御家人になった。
これを鎌倉幕府の始まりとする説が有力になっている。これは鎌倉幕府自身の歴史観になる。「『吾妻鏡』が右の一文を記していることは、鎌倉幕府自身がこの頼朝の大倉邸入りをもって、鎌倉幕府の正式なスタートであったと考えていたことを示している」(細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年、155頁以下)。
鎌倉殿誕生を幕府の開始と見る立場は、朝廷から何かを認められたことが重要ではなく、東国武士団が朝廷とは無関係に頼朝を自分達の主と認めたことが重要とする。
「上から何を与えられたかではなく、自らが何を勝ち取ったのかを重視するなら、鎌倉幕府の成立は治承四年十二月十二日、と見るのが最も妥当であろう」(西股総生『鎌倉草創 東国武士たちの革命戦争』ワン・パブリッシング、2022年、143頁)
その後の出来事は鎌倉幕府の発展過程となる。故に2022年のNHK大河ドラマのタイトルは『征夷大将軍の13人』ではなく、『鎌倉殿の13人』となる。
一方で、この時点では南関東を勢力圏とする地方政権であり、日本史上の制度としての幕府の始まりとしては弱い。
重忠は頼朝の命に従い、武蔵の氷川神社の社殿再建も進めた。鎌倉殿は社領三千貫を寄進し、南関東の主としての権威を示した。武蔵国一宮の氷川神社の社殿が再び輝く姿を見ることは、重忠にとっても誇りであった。
御所に詰めていた重忠は頼朝から呼び出された。
「畠山殿、鎌倉殿がお召しでございます」
「分かった。すぐに参る」
重忠が頼朝の部屋に入った。
「次郎、来てくれたか」
「ご命令を承ります」
「これまでは陰陽師に吉凶を占わせ、吉日に鶴岡八幡宮寺に参拝していた。しかし、それでは予定が組みにくいのだ。何か良い方法はないか」
少し考えてから重忠は答えた。
「日の吉凶に関わらず、正月一日に参拝することを決めるのは如何でしょうか」
「正月一日か…確かに、それならば毎年確実に参拝できるな。それに、新年の始まりを祝う意味でも良い」
「そうです。武士たちの心も引き締まり、新しい年の始まりを共に祝うことができます」
「よし、その案を採用しよう。来年の正月一日に鶴岡八幡宮寺に参拝する。参拝の警固を頼む」
頼朝は満足気に言った。
「お任せください」
重忠は深々と頭を下げた。
頼朝は治承五年正月一日の卯の刻(午前六時頃)に鶴岡八幡宮寺に参拝した。重忠が郎従を率いて警固した。
「今日の参拝は滞りなく行えた。お前の提案が功を奏したな」
参拝を終えた頼朝は重忠に語った。
「光栄でございます。これからも鎌倉の発展と平和を祈り、皆で力を合わせてまいりましょう」
重忠は微笑んだ。
「その通りだ。我々の新しい年が、平和と繁栄に満ちたものであるように」




