中国大返し
光秀は本能寺の信長を討った勢いで、二条城にいた信長の長男の織田信忠も討ち果たした。織田長益と前田玄以は逃げ延びることができた。信長と後継者の信忠の二人が討ち死にしたことは織田家にとって大打撃になった。信長と異なり、信忠は逃走が不可能ではなかった。これは信忠の危機に際しての行動力のなさと批判される。もっとも信忠は生き延びたとしても有力家臣を制御できず、父親の恨みを一身に浴びたかもしれない。
光秀は革新的な政権構想を打ち出した。民が村の代表者を出し、どんどん上位に代表を出していくボトムアップの政治を目指した。民主主義である。日本の民主主義は皆の決めたことに従うという上から下の発想が強い。明智光秀のボトムアップの思想は日本で最も欠けているものである。このボトムアップの思想は、トップダウンの指導者であった信長を倒すことと一貫する。
本能寺の変後の光秀は精彩を欠いたとされる。信長に働かされ過ぎて過労死寸前だったとの説があるほどである。信長への思い入れが深ければ脱力したとの説もある。しかし、画期的な斬新な政権構想の具体化に力を注いでいたならば、軍事面の動きが鈍くてもやむを得ないと言えるだろう。何より安土城をあっさりと掌握できたことが光秀の支配力の強さを示している。
光秀は与力大名の細川藤孝(幽斎)を信頼し、新たな政権への参画を期待していた。しかし、藤孝は光秀に同調しなかった。信長への忠義立てや光秀の滅亡を予想していたためという俗人的な理由だけで得なく、光秀の斬新な構想を恐れたためであった。無理もない話である。
光秀は自己の政権構想を朝廷に認めさせる。本能寺の変後の光秀は朝廷工作に時間を費やし、軍事的な対応が遅れたことが敗北につながった。しかし、秀吉の大返しがあり得ないものであって、織田家の武将達は身動きがとれない状況であった。光秀が動く必要はなかったと言うべきだろう。
本能寺の変が起きた時、秀吉は備中高松城を水攻めしていた。毛利家は高松城救援に大軍を送ったが、手が出せなかった。吉川元春は羽柴秀吉の計略に嵌められたと自覚し、玉砕を覚悟する。
秀吉は本能寺の変を知ると、即座に毛利と講和を締結し、中国大返しを行った。秀吉は情報を封鎖して、毛利家が本能寺の変を知る前に和議に持ち込もうとした。実のところ、毛利家は薄々気付いており、秀吉には恩を売る形となった。これは後の豊臣政権では報いられた。しかし、そのような曖昧な態度は、関ヶ原の合戦後の徳川家康には通用しなかった。
秀吉は六月六日に出発し、八日に姫路城に戻った。池田恒興は秀吉を兵庫で出迎えた。信長の死に互いに涙をこらえられずにいたが、力を合わせて光秀を討つことを決めた。両家の関係を深くするために恒興の娘を三好信吉(羽柴秀次)に嫁がせ、次男の輝政を秀吉の養子にすると約束した。
池田恒興は織田信長の乳兄弟であり、信長の最も信頼する家臣であった。林田藩の初代藩主は建部政長の母は恒興の息子の池田輝政の養女である。恒興は後に長久手の戦いで討ち死にするために二線級の武将とされがちであるが、徳川家康が強過ぎると見るべきだろう。次代の池田輝政は江戸時代に一族合わせて百万石を誇った。
秀吉が尼崎へ着陣すると、恒興、中川清秀、高山右近らで軍議を行った。恒興も清秀も右近も先陣に名乗りを上げたが、秀吉が仲裁をして、右近が一番、清秀が二番となった。恒興は右近や清秀を統括する立場であったため、先陣争いから外れた。
さらに織田信孝と丹羽長秀が合流した。秀吉と恒興は信孝を出迎えて涙を流した。信長の息子の信孝は弔い合戦の旗印であるが、信孝が秀吉に合流したという点が重要である。実質的な総大将が秀吉になった。この勢いのまま秀吉は山崎の合戦を主導した。ここから関白就任、天下統一に至る過程は豊臣秀吉の絶頂期である。秀吉が最も輝いていた時期である。
山崎の合戦は理想を掲げた明智光秀と手段を選ばない羽柴秀吉の対決である。山崎の合戦は今後数百年の民のあり方を規定する戦いになった。秀吉が勝利したことは日本の民衆にとって不幸である。光秀が危惧したように、お上に依存する国民体質が出来上がった。
山崎は光秀の政権構想のモデルとなった自治の町である。光秀は自己の理想を貫くために自治の町を戦場にすることを避ける。手段を選ばない卑怯者ではない。光秀が軍を引いたために秀吉は無傷で町に進駐する。秀吉は町人に対して平和的に進駐したかのように振舞うが、光秀が軍を引かなければ町を戦場にするつもりであった。秀吉の偽善が腹立たしい。




