建部秀清
林田藩の初代藩主建部政長の三代前は建部秀清である。秀清は南近江の戦国大名・六角定頼の家臣であった。六角氏は近江源氏佐々木氏嫡流で、鎌倉時代からの近江国守護であった。南近江を地盤とし、隣国の伊賀国にも勢力を伸ばしていた。
六角氏は戦国大名化が一定の成功を収めた守護大名である。定頼は家臣団を本拠の観音寺城に集住させたり、観音寺城の城下町に楽市令を出したりと戦国大名の政策を先取りしていた。秀清は建部郷に領地を保持し続けており、家族も建部郷に暮らしていた。長男の秀直が天文四年(一五三五年)、次男の寿徳が天文六年(一五三七年)に生まれる。ともに建部郷で生まれ育っている。
定頼は天文二一年(一五五二年)に死去し、六角義賢が家督を継承した。義賢は永禄二年(一五五九年)に隠居し、嫡男の六角義治が家督を継承したが、実権は義賢が握っていた。
六角氏は近江国守護であったが、北近江は近江源氏佐々木氏支流の京極氏の勢力圏であった。京極氏は足利尊氏の盟友の佐々木道誉(京極高氏)の活躍で六角氏以上に反映した。しかし、戦国時代になると京極氏は衰退し、家臣の浅井氏の傀儡化する。浅井氏が北近江の戦国大名になった。
六角義賢は浅井久政を破り、浅井氏を従属化に置いた。久政の嫡男に偏諱を与えて賢政と名乗らせた。しかし、浅井賢政は六角氏への従属に不満を抱いており、反旗を翻し、野良田の戦いが勃発した。
賢政は六角家の国人領主に調略をしかけ、永禄三年(一五六〇年)に愛知郡肥田城主・高野備前守が浅井家に寝返った。高野備前守の寝返りに激怒した義賢は肥田城を攻撃する。長政は救援に向かい、浅井家と六角家は八月に野良田の戦いで激突する。浅井軍一万に対して六角軍二万と六角勢が有利であったが、長政の巧みな指揮による斬りこみなどで長政が勝利した。野良田の戦いに勝利した賢政は長政と改名し、六角氏への従属を否定した。
浅井氏が従属から脱したことで、六角氏は浅井氏という仮想敵国を抱えることになる。そこで六角義治は美濃斎藤氏との同盟を模索する。しかし、父の義賢は同盟に反対であった。美濃斎藤氏は下剋上で守護の土岐氏を追い出した戦国大名であり、六角氏の名門意識が障害になった。
六角氏よりも浅井長政の方が思い切りはよかった。美濃斎藤氏と対立していた尾張の織田信長と同盟する。野良田の戦いと同じ年の永禄三年の五月一九日(一五六〇年六月一二日)には織田信長が今川義元の大軍を破る桶狭間の戦いが起きた。信長と長政には少数の兵力で大軍を打ち破った武将同士のシンパシーがあっただろう。
長政は織田との同盟のために信長の妹の市を妻に迎えた。市は織田信長の天下布武に協力するために長政と政略結婚した。しかし、それは家のためというような封建的価値観からではなく、兄への愛のためであった。しかし、嫁いだ後は長政の人柄に惹かれ、長政を愛した。
長政と市には三人の娘が生まれた。浅井三姉妹と呼ばれる。長女は茶々、次女は初、三女が江(小督、江与、崇源院)である。茶々は長女らしく、落ち着いている。茶々と比べて次女の初は感情をぶつけてくる。江にとっても、すぐ上の姉ということで、茶々よりも気安い関係である。江は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の御台所になる。嫡男・家光を疎み、二男・忠長を偏愛した。
織田信長は永禄一一年(一五六八年)、足利義昭を奉じて上洛する。南近江は上洛の通り道となっており、六角義賢は臣従か抵抗かを迫られることになった。臣従は形式的には足利義昭であるが、実質的には信長になる。これは屈辱的であるため、義賢は戦うことを決意し、観音寺城の戦いが起きた。
観音寺城の戦いと言うものの、主要な決戦は支城の箕作城で行われた。秀清も箕作城に入った。日中に木下秀吉が北、丹羽長秀が東から攻撃したが、撃退した。その日の夜に秀吉が夜襲をかける。この攻撃で秀清は戦死し、箕作城は落城する。




