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番外:美作国の林田

美作国にも林田がある。苫田郡林田郷である。これは「はいだ」と読む。苫田郡は貞観5年(863年)に苫西郡と苫東郡に分割された。その後、苫西郡は西西条郡と西北条郡、苫東郡は東南条郡と東北条郡に分割された。林田郷は東南条郡にあった。


鎌倉時代に林田郷は六波羅蜜寺の寺領が成立していた。六波羅蜜寺は智山派の真言宗寺院である。林田郷の清正名は1232年に和気盛房法師から六波羅蜜寺灯油所として寄進された。「名」は徴税のために設けられた単位である。林田郷の安寧院は美作国司から1238年に不輸(租税を納めなくて良い権利)が認められた。


江戸時代になると美作国は関ヶ原の合戦の論功行賞で小早川秀秋の領地になった。しかし、秀秋は早死にし、小早川家は取り潰された。その後は森忠政が信州川中島から転封し、美作津山藩18万6500石が成立する。忠政は長久手の戦いで討ち死にした森長可の末弟である。長可の死後に森家を継いだ。長久手の戦いでは播州林田藩と接点のある池田恒興も討ち死にしている。


小牧・長久手の戦いは羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の戦いである。その重大局面が天正一二年四月九日(西暦1584年5月18日)の長久手の戦いであった。羽柴軍と徳川軍は小牧で睨み合っていたが、池田恒興が別動隊を率いて家康の本拠地の三河を攻撃することを献策した。秀吉は許可し、恒興、森長可、堀秀政、羽柴秀次を別動隊とした。


ところが、家康は別動隊の動きを見破っており、逆に別動隊を背後から襲った。羽柴秀次を白山林の戦いで撃破した。続いて堀秀政を桧ヶ根の戦いで攻撃したが、ここでは反撃されてしまう。反撃には成功したものの、堀秀政は撤退する。


家康は最後に長久手の戦いで恒興と長可を攻撃する。長可は井伊直政隊に狙撃されて討ち死にした。これで徳川が優勢になった。森長可は本能寺の変で討ち死にした森蘭丸、坊丸、力丸の兄である。恒興は永井直勝の槍を受けて討死にした。息子の池田輝政は逃げ延び、池田家の家督を継承した。


恒興と長可の戦死は秀吉にとって打撃である。もっとも秀吉方の武将と言っても織田信長の有力家臣であり、秀吉に対して同僚意識を持っていた。特に恒興は織田信長の乳兄弟である。彼らの戦死は秀吉の政権基盤の確立の上ではプラスになった面があるだろう。


長久手の戦いは家康の戦上手を印象付けた。家康が秀吉に戦で負けなかったことは、後の豊臣政権下での家康の地位向上になり、秀吉没後は天下人に押し上げた。


閑話休題。津山藩は城下町を整備し、元和三年(1617年)に林田町ができた。ここでは江戸時代から明治時代にかけてつくられた町屋が多く残されている。東南条郡には林田村も存在した。


森家は第五代藩主の森衆利の時に改易される。衆利は生類憐れみの令により武蔵国多摩郡中野村の犬小屋の普請総奉行になった。ところが、浪人らが犬を殺害する事件が起き、家臣の若林平内が切腹を余儀なくされた。犬のための法令で家臣が死ななければなない理不尽から衆利は発狂し、幕政を批判した。これによって森家は改易され、津山藩は越前松平家10万石となった。


明治時代になると林田町は東南条郡津山東町になる。津山東町は1900年(明治33年)に西北条郡津山町に編入される。同時に西西条郡・西北条郡・東南条郡・東北条郡が苫田郡になったため、苫田郡津山町になる。東南条郡林田村も苫田郡林田村になる。林田村は1923年(大正12年)に津山東町になる。津山町や津山東町らは1929年(昭和4年)に合併して津山市になる。林田町は津山市林田町、林田村は津山市林田になる。


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