番外:四国の林田
四国にも林田がある。讃岐国阿野郡林田郷である。南西を綾川、北西を瀬戸内海に面している。古くから塩田が発達していた。讃岐国は四国の北東に位置する。讃岐国は縦に十一の郡に分けられている。西から刈田、三野、多度、那珂、宇陀、阿野、香川、山田、三木、寒川、大内郡である。
阿野郡は綾絹の産地であり、渡来人の漢部が織物に携わっていたことが名前の由来である。山本郷、松山郷、林田郷、鴨部郷、氏部郷、甲知郷、新居郷、羽床郷、山田郷から構成される。阿野郡には讃岐国府があった。承平天慶の乱では伊予国で蜂起した藤原純友が讃岐国の国府を陥落させた。
林田郷は保元の乱で敗れて讃岐国に流罪になった崇徳院が三年間過ごした場所である。保元の乱は平安時代末の保元元年(一一五六年)に起きた皇室や摂関家の争いであるが、戦争の中心は武士が担った。武士の時代の始まりを示す事件であった。以下の二陣営で戦った。
後白河天皇、関白藤原忠通、源義朝、平清盛
崇徳院、藤氏長者・藤原頼長、源為義、源為朝、平忠正
崇徳院は鳥羽天皇の皇子であったが、父親や弟から愛されなかった。中でも弟の後白河天皇との確執は深かった。崇徳院は父親の鳥羽法皇が危篤に陥った際、見舞いに行ったが、後白河天皇に追い返されてしまった。
鳥羽法皇が崩御すると、後白河天皇の側近の藤原信西が陰で崇徳院と藤原頼長が兵を集め反乱を起こそうとしているとの噂を流した。後白河天皇は噂を口実として、頼長が兵士を集めることを禁止し、財産も没収する。崇徳院や頼長に挙兵の意思はなかったが、後白河天皇の措置が挙兵に追いやってしまった。
保元の乱は皇族も公家も源氏も平氏も親兄弟や親族同士で戦った。源義朝と平清盛にとっては立身出世のきっかけとなった戦いではあるが、崇徳院側の身内と敵対することになり、源義朝は父や弟達、平清盛は叔父を処刑する結果となった。
結果は崇徳院側が敗れ、崇徳院は剃髪して讃岐国に配流となった。崇徳院は七月二三日に鳥羽から船で下り、讃岐国の松山の津に到着した。しかし、讃岐国では御所の準備ができておらず、国府役人の綾高遠の館を仮の御所とした。崇徳院は都を懐かしんで歌を詠む。
「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」
この歌から仮の御所は雲井御所と名付けられた。雲井御所近くに流れる綾川を鴨川と呼んだ。現在でも綾川は鴨川と呼ばれる。
崇徳院は雲井御所に三年間過ごした後、鼓岡木ノ丸御所に移った。木ノ丸とは木の丸太で造った御所との意味である。御所としては粗末な造りであった。崇徳院はここで六年間過ごした。崇徳院は後世菩薩の為に指から流した血でお経を書写し、寺社に納める事を願った。ところが、後白河院の反対で願いが叶えられなかった。
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」
崇徳院は自らの舌を噛み切り、その血で誓状を書き付けた。
崇徳院が亡くなると葬儀をどうするか都の支持を仰いだ。その間に遺体は、湧き水につけられていた。その湧き水は「八十場の霊泉」としてパワースポットになっている。都の方針によって遺体は白峯で荼毘に付され、御陵が築かれた。白峰は五色台と呼ばれる山塊の一つ。陰陽五行説に基づいて紅ノ峰、黄ノ峰、青峰、黒峰、白峰がある。
崇徳院は怨霊として恐れられた。二〇世紀にも怨霊の怒りを思わせる現象が起きた。昭和三十九年(一九六四年)九月二十八日に白峯御陵で崇徳院の八〇〇年祭が執り行われた。式典当日の午前〇時過ぎに白峯山麓の林田小学校で失火が起き、校舎を全焼した。
鎌倉時代に守護が置かれると、讃岐国守護の下に林田守護代が置かれることがあった。三浦光村が讃岐国守護の時に長雄二郎左衛門胤景が林田守護代を称した。三浦光村は鎌倉幕府評定衆の有力御家人であったが、宝治元年(一二四七年)の宝治合戦で滅亡した。真言宗の僧侶の道範が大伝法院焼き討ちの責任を問われて林田守護代のところに配流された。
讃岐国御家人の沙弥円意は弘安元年(一二七八年)に阿野郡林田郷の梶取名内の潮入新開を祇園社(八坂神社)へ寄進する。分国主の亀山上皇は弘安二年(一二七九年)に潮入新開を祇園社領と認めた。御家人が荘園を神社に寄進している。中世は武士の時代とされるが、宗教権力の強さを示すものである。この時代の年貢は米が中心であるが、讃岐国では油や炭や塩も納められていた。林田郷では塩浜が作られ、塩が年貢として納められた。
南北朝時代には細川清氏と細川頼之の白峯合戦の舞台になった。林田郷は守護大名・細川氏のヘゲモニー下にあった。阿野郡は国人の香西氏の勢力が強まった。香西氏は細川氏との結び付きを強め、細川四天王の一人にまでなる。
応仁の乱後は細川氏の勢力が弱まり、讃岐国は小勢力の群雄割拠状態になる。阿波国では細川氏の重臣の三好氏の勢力が強まり、讃岐にも勢力を伸ばした。この中で十河氏が三好氏と深く結びつき、讃岐を平定した。三好長慶は弟の三好一存に十河氏を継がせた。香西氏も十河氏の支配を受けるようになった。




