横須賀造船所
忠順は安政七年(一八六〇年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米した。米国では通貨の不当な交換比率の見直し交渉を行う。帰りはアフリカ喜望峰を周ってインド洋経由という世界一周の旅になった。ここで近代文明に触れ、グラスやネジ、バネといった工業製品を持ち帰った。工業製品を導入して近代化を図るだけでなく、工業製品を国内で製作することから志向した。
その具体化が横須賀造船所である。造船所建造に対して、勝海舟は海軍五百年説の立場から反対した。
「軍艦は数年で建造できるとしても、海軍を運用する人材育成には時間がかかる。英国でも三百年要しており、日本では五百年かかる。それ故に人材育成を優先すべき」
その後、尊皇攘夷派と気脈を通じていると見なされた勝は失脚し、忠順の提言が採用されて横須賀造船所は建設された。フランス海軍技師のヴェルニーがロッシュの推薦で来日し、建設を進めた。横須賀造船所は単なる箱モノではない。出勤や残業など近代的な雇用関係の概念も導入した。日本の近代化を推進する施設であった。
横須賀造船所は、幕府崩壊後は明治新政府に引き継がれ、帝国海軍の重要施設となった。日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎は戦後、小栗の遺族に「日本海海戦の勝利は小栗が作った横須賀造船所のお蔭」と礼を述べた。小栗の先見性が認められた瞬間である。司馬遼太郎も小栗を「明治の父」と評した。
ところが、日本は日露戦争の勝利に驕って無謀な侵略戦争に突き進み、国土を焼け野原にしてしまった。ここまで見ると、人材育成を先とした勝の言葉も一理ある。明治になって日清戦争など日本の帝国主義的政策に反対した勝の主張も合わせると一層含蓄がある。
このように長期的視点に立てば両者の主張は共に尤もであるが、当時の視点に立てば忠順に軍配上がる。国内に造船所がなければ、船舶は海外から購入しなければならない。実際、幕末は幕府も諸藩も海外から船舶を購入していた。しかし、船舶は購入したら終わりではない。故障すれば修理しなければならない。
造船所は新たに船舶を建造するだけでなく、既存の船舶を修理する場所でもあった。消耗品である砲弾や弾丸も作る総合工場とする構想もあった。実際、小栗が訪米時に見学したワシントン海軍造船所が同じであった。造船所で既存の船舶をメンテナンスできれば、外国に依頼する費用と時間を節約できる。旧日本軍の大きな欠点として兵站の軽視が挙げられる。造船所を提言した忠順は日本人に欠けがちな視点を有していた稀有な人物であった。
忠順と勝海舟は対照的な存在である。現実に250年以上も続き、当時の人々にとって未来永劫存続すると思われた幕府の限界を見抜いていた点では共通する。しかし、その幕府への姿勢は異なっていた。
勝は幕臣でありながら、攘夷から倒幕という時代の流れをもたらした存在である。歯に衣着せずに幕府の無能を批判していた。西郷隆盛に最初に倒幕を意識させた。戊辰戦争では主戦論者を抑えて江戸城の無血開城を実現した。それは各々の出身を踏まえると当然という面もある。
忠順は三河以来の旗本の家柄である。これに対して勝は先祖代々の武士ではなかった。勝の先祖は高利貸しで財をなし、御家人株を買って御家人となった。これは勝に師事し、倒幕の推進勢力になった薩長同盟成立の立役者となった坂本龍馬も同じである。坂本家も商人・才谷屋の分家筋で、土佐藩から郷士に取り立てられた。二人の共通点は先祖が財力で武士に成り上がったことである。幕府を絶対視しなかった柔軟な発想には、二人のルーツが影響しているだろう。
忠順の言葉「病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず」は明治になって福沢諭吉が「痩我慢の説」で紹介した。そこには幕臣でありながら、明治政府に出仕して高官となった勝海舟らへの批判が込められている。福沢の反骨精神は了とする。小栗と比べ、勝の幕府への忠誠心が薄いことは、ある意味当然であった。勝や坂本のような存在が活躍する時点で、既に身分制度を前提とする幕藩体制は崩壊しつつあった。
忠順は文久二年(一八六二年)に勘定奉行に就任する。この時に上野介の官位を賜る。上野介は忠臣蔵の吉良上野介が悪名高い。縁起が悪いという声があったが、例え惨殺されようとも国のために命を失うは本懐と受け入れた。義父の建部政宇は内匠頭である。林田藩の三代藩主・建部政宇も内匠頭であった。政宇は浅野内匠頭と同時代人であった。
慶応四年(一八六八年)に戊辰戦争が始まり、徳川慶喜が江戸に逃げ戻ってきた。忠順は箱根で薩長軍を迎撃することを主張した。ところが、一月十五日に忠順が登城したところ、御役御免を申し渡された。慶喜は恭順一直線であったために主戦派の忠順が邪魔であった。
忠順と慶喜の関係は元々、微妙であった。慶喜は孝明天皇の信任を基礎として京都で幕府からも半独立の権力を持っていた。一橋と会津と桑名の一会桑政権と呼ぶ。忠順は慶喜を江戸に戻し、幕府兵力が直接京都を抑えるようにすることを画策していた。
慶喜から罷免された忠順は、小栗家の知行地の上野国群馬郡権田村に引っ込むことにする。主戦派幕臣が会津藩など東北の藩と合流し、抵抗する動きがあったが、忠順は同調しなかった。あくまで忠順は徳川幕府中心主義であった。朝廷や薩摩藩や長州藩が幕政を左右することを好まなかったが、会津藩などの佐幕藩が幕政を左右することも好まなかった。
忠順は権田村で水路を整備したり、塾を開いたりしたりするなど静かな生活を送っていた。ところが、官軍に捕縛され、取り調べもなされぬまま斬首された。冤罪である。明治政府にとって忠順が都合の悪い人物であったかが分かる。




