林田藩
林田藩成立後の建部氏は国替えがなく、幕末まで林田藩を治めた。
歴代藩主は以下の通り。
政長従五位下、丹波守
政明従五位下、丹波守
政宇従五位下、内匠頭、寺社奉行
政周従五位下、丹波守
政民従五位下、丹波守
長教従五位下、近江守
政賢従五位下、内匠頭 大番頭
政醇従五位下、内匠頭 大番頭
政和従五位下、内匠頭 大番頭
政世従五位下、内匠頭
三代藩主・建部政宇は建部政長の五男である。兄・政明の養嗣子となり、寛文十年(1670年)2月27日に藩主になる。政宇は藩内の二ヶ所に窯を築き、林田焼を始めた。林田焼は西播磨地方で最も古くから焼かれた焼き物になった。
林田焼は半陶半磁の鮮やかさを特徴とする。当時の京都は「わびさび」から「きれいさび」への流行の転換期であった。鮮やかな林田焼は「きれいさび」のトレンドにマッチした。
一方で林田焼は「わびさび」を全否定しておらず、貫入を意識したつくりになっている。貫入は素地と釉の膨張率の差などにより、釉に入った細かいひびである。ひびが入ることが逆に美的価値を向上させると捉えられた。
林田焼は野々村仁清の影響を受けている。仁清は丹波国桑田郡野々村生まれの陶工。瀬戸で轆轤の修業を積み、仁和寺門前に御室窯を開いた。京焼の大成者である。仁清の号は仁和寺の仁と清右衛門の清を合わせたもの。「きれいさび」の鮮やかさは仁清と重なる。また、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺し、自分の作品であることを明確にしたことが特徴である。林田焼も赤字で陶印がある。
政宇は絵画も嗜み、狩野常信の門人になった。狩野常信は江戸幕府に仕えた御用絵師。狩野探幽に画を学ぶ。そのため、狩野探幽の様式を踏襲した画風であるが、装飾性は増している。狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに狩野派の四大家と称せられる。
政宇は伏見奉行、寺社奉行を歴任した。伏見は大阪と京都の間の交通の要所である。そのため、伏見奉行は遠国奉行の中では異例の大名が就任する役職である。初代は小堀遠州である。小堀遠州は近江小室藩初代藩主で、茶人や作庭家として名高い。遠州の息子の小堀正之が小室藩第二代藩主である。建部政長の娘は小堀正之に嫁いだ。御所の造営奉行も命ぜられる。
七代藩主・建部政賢は建部政民の四男。天明の大飢饉に見舞われる。米が不作となり、商人の買い占めや売り惜しみで米価が異常に高騰し、庶民の生活を苦しめた。天明七年(1787年)5月に大坂で打ちこわしが発生し、それが全国に波及した。最初は米屋が襲われ、酒屋や質屋などにも広がった。林田藩でも大規模な打ちこわしが起きた。姫路藩と龍野藩の力を借りてようやく鎮圧した。
政賢は寛政六年(1794年)に藩校の敬業館を創建した。「敬業」は『礼記』の「敬業楽群」に由来する。講堂、聖廟、練武場、文庫などがあった。士族の子弟は8歳になると入学し、16歳で卒業した。庶民でも志願者は入学を許され、授業は身分の区別なく行われていた。「士庶共学」は敬業館の特徴であった。
敬業館の講堂は1871年(明治4年)に敬業小学校となる。1902年(明治35年)に敬業尋常小学校が林田尋常小学校に改称される。この年が林田小学校の創立年となる。
八代藩主・建部政醇は、政賢の四男である。文化九年(1812年)11月22日に藩主になる。文政二年(1819年)11月に藩札として銀札と銭匁札の発行を始めた。銭匁札の額面は銭十匁、五匁、一匁、五分、三分、二分、五厘であった。兌換紙幣の発行は問題なかったが、不換紙幣の発行は失敗であった。一度発行を許すと、倍にも二倍にも増えていった。貨幣価値が低下し、物資が不足した。物の値段が毎日のように上がり、店を閉める小商人が続出した。
江戸時代が進むと幕府も藩も運営が厳しくなった。武士の収入は年貢米が基本であるが、商品経済の進展により、支出が増える。このため、幕政改革でも藩政改革でも質素倹約が先ず掲げられることは当然である。この質素倹約を時代に逆行する消極的政策と低く評価する向きもある。しかし、質素倹約には身分や格式で贅沢をする既得権を否定する積極面があった。藩主自ら木綿の服を着るということに意味がある。現代に置き換えれば重役の社用車廃止など健全なコストカットに繋がる。
勿論、自分は贅沢して人々に規制を押し付けるだけの公務員的な質素倹約は有害である。現代でも緊急事態宣言やまん延防止重点措置で飲食店を規制しながら、公務員は宴会している。兵庫県警神戸西警察署では居酒屋で歓迎会を開催し、新型コロナウイルス感染症の集団感染が起きた。警視庁尾久警察署では署長は十数人の懇親会参加後に新型コロナウイルスに感染した。埼玉県警では上尾警察署地域課の20代の男性巡査が同僚6人と会食後に新型コロナウイルスに感染した。
質素倹約を掲げる藩政改革が抵抗に遭うことがある。抵抗の理由は名門意識である。当家は伝統ある名門名家であり、名門には格式が必要という論理である。例えば米沢藩上杉家は15万石であるが、上杉景勝時代の120万石の大藩意識が抜けきれなかった。
これも21世紀の日本に引き寄せることができる。今や日本は世界第二の経済大国でも、アジア唯一の先進国でも、世界唯一の有色人種のサミット参加国でもない。それなのに未だに昭和の感覚を持ち続ける人々も多い。その昭和の感覚がダウンサイジングの障害になっている。
藩の中には経営がたちいかなくなり、幕府に領地返上を願い出ることを検討するところも生じた。破産を回避しようと借金を続ける経営者や一度立てた計画に固執する公務員より健全である。明治時代に版籍奉還や廃藩置県が比較的すんなり行われたが、藩運営の行き詰まりが背景にあった。




