大名
大坂の陣の論功行賞で、家康は政長の対応を評価し、元和元年(1615年)に摂津尼崎藩1万石を与えられ大名となった。石高が一挙に14倍になった。この経緯から建部家は外様大名であるが、準譜代大名的な存在になり、寺社奉行や大番頭という幕府の要職に就任する藩主を輩出することになる。
元和三年(1617年)に姫路藩主・池田利隆が亡くなった。幕府は跡継ぎの池田光政が幼く、要衝姫路を任せられないという理由で、鳥取藩32万石に転封した。これに伴い、摂津尼崎藩は播磨国揖保郡林田への転封が命じられた。尼崎藩には譜代大名の近江膳所藩主・戸田氏鉄が入った。尼崎藩は周辺地域を合わせて5万石になった。幕府には要地である尼崎も譜代大名で抑えようという思惑があった。
これによって林田藩1万石が成立した。政長はようやく林田との関わりを理解した。播磨国揖保郡林田は後の兵庫県姫路市林田町である。播州平野に位置し、瀬戸内性の豊かな自然と、安定した気候に恵まれた関西屈指の穀倉地帯である。林田川が流れる。政長は林田の地に、ある種の優しさと平穏を感じた。温かい湯に浸されるような心の安らぎを感じた。
林田の地名は律令時代の播磨国揖保郡林田里に遡る。林田里は元々、淡奈志と呼ばれていた。播磨国は伊和大神が国作りの神である。この伊和大神が土地支配のための占有の標を立てたところ、楡の木が生えてきた。そこで神の手の印という意味で、淡奈志と呼ぶようにしたという。林田川の自然堤防には楡の並木が広がっている。これは神話を指しているものと考えられる。
伊和大神の子に伊勢都比古命、伊勢都比売命の兄妹がいた。この兄妹は林田里の伊勢野の山の峰にいた。衣縫猪手と漢人万良の祖が、社を建てて祀った。これによって平穏が訪れ、里を形成することができた。これが伊勢野の由来とされる。後の兵庫県姫路市林田町上伊勢と下伊勢である。この祭祀は林田町上伊勢の多賀八幡社に受け継がれている。
霊亀元年(715年)に国郡里制は郷里制に改められ、里は郷と改称された。これにより、林田里は林田郷になる。林田郷では林田農業(林田農法)が普及した。これは焼畑農業の進化した形態である。焼畑農業は山林を伐採して火入れし、四年間から五年間畑として耕作して放棄する。
これに対して林田農業は伐採後に火入れせずに畑として十年ほど耕作して畑に戻す。林に戻す際はハンノキを植えて地力を回復させる。ハンノキは空気中の窒素を固定するために地力回復になる。ハンノキの樹皮は染料になり、樹木は家具の用材になる。焼き畑農業に比べて持続可能性が高い。
荘園制が発達すると、林田郷の一部は林田荘として成立する。林田荘は寛治七年(1093年)に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の荘園になった。林田荘では元暦二年(1184年)4月29日の文書で守護人や地頭が横領や狼藉をしていると記録している。守護・地頭は公式には文治元年(1185年)10月、源義経・源行家の追討を目的に設置されたが、それ以前から自称も含めて存在していた。
室町時代には播磨国守護赤松氏の勢力下になり、その家臣・喜多野氏の所領があった。応仁年間(1394年から1428年)に林田町上伊勢に空木城が築城され、喜多野新左衛門忠助が居城した。
林田町松山には松山城が築城された。永正年間(1504年から1521年)は赤松氏の被官の衣笠長門守村氏が城主であった。同じく永正年間には赤松氏の被官の谷沢甲斐守国氏が林田町林田に窪山城を築城した。同じ赤松氏の被官と言っても、国氏は村氏の影響下にあった。
永正15年(1518年)に備前守護代の浦上村宗が主君の赤松義村と対立し、居城である備前三石城に退去する。村氏は村宗の姪婿であり、村宗に同調して赤松氏から離反する。国氏も村氏に従った。しかし、松山城も窪山城も赤松義村に攻められて落城した。
その後も浦上村宗と赤松義村の抗争は続き、最後に村宗は義村を室山城に幽閉し、謀殺した。村宗は赤松の跡目に義村の嫡子才松丸(政村)を擁立し、その後見人となり、赤松家の実権を握った。しかし、政村との抗争が表面化し、享禄四年(1531年)の大物崩れで、政村の攻撃を受けて戦死した。
その後は宇野氏の勢力が伸び、長水城主・宇野政頼は四男の宗祐を本郷祐義の養子とし、松山城主とした。織田信長は羽柴秀吉に中国攻めを命じ、天正5年(1577年)から播磨攻略が始まった。宇野政頼も本郷宗祐も秀吉に抵抗したが、天正八年(1580年)4月に小寺官兵衛孝高や神子田半左衛門の軍勢に攻略された。秀吉は降伏した宗祐の所領を取り上げ闕所(欠所)とした。家来など下々のものは奉公させ、難所整備の労役を課した。
秀吉は信長の命によって播磨国の検地を実施し、支配拠点として姫路城を築城し、浄土真宗の寺内町だった英賀から町人を呼び寄せ、城下町を整備した。空木城も松山城は城割令によって廃城になった。




