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大阪の陣

豊臣方と徳川方の戦は予想できたが、開戦理由は醜いものであった。慶長一九年(1614年)の方広寺鐘銘事件である。方広寺鐘銘事件は卑怯な言いがかりであり、徳川家康の汚点になった。方広寺は天台宗の寺院である。豊臣秀吉が発願して造った大仏を安置するために、高野山の僧の木食応其が創建した。


方広寺は文禄五年(1596年)の慶長伏見地震の被害に遭い、大仏は倒壊した。豊臣秀頼は亡父秀吉追善供養のため、大仏を再建した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させた。その鐘銘には「国家安康」「君臣豊楽」の文字があった。国家安康は「国が平らかに安定し康らかに治まっている」、君臣豊楽は「君主から家臣まで豊かに過ごし暮らし楽しむ」の意味である。結構な文言である。何の問題もないものである。


ところが、それに家康は難癖をつけた。

「安の一字で家康を分断した上、豊臣を君として楽しむものではないか」

一般的な読み方とは異なる言いがかりである。何が何でも豊臣にケチを付けなければ気が済まない家康の狭量を示すものである。


幕府御用学者の林羅山も同調した。

「右僕射源朝臣は、源朝臣(徳川家康)を射るという意味ではないか」

僕射は大臣の唐名である。黄門(中納言)などと同じである。本気で主張しているならば林羅山が無知で恥ずかしいことである。


関ヶ原の合戦後に家康が完全な天下人になったとする見方は後の時代から遡った視点である。関ヶ原の合戦後は徳川と豊臣が併存する二重公儀体制であった。家康自身も当初は二重公儀体制で良いと思っていた。しかし、後から心変わりして、豊臣家を屈服させるか滅ぼすかしないといけないと考えるようになった。それが難癖の背景であり、豊臣よりも徳川の問題である。


方広寺鐘銘事件が家康の完全な言いがかりではなかったとする見解もある。当時は名前を使うことを憚る意識があり、それにも関わらず大阪側が意識的に使用していたとする。しかし、これは該当しない。


名前は他者から認識されるために存在するものである。名前を使うことを憚る意識があるとすると、それは名前の本来的機能とは異なるものである。実際のところ、名前は落首で使われている。手取川の戦いの落首に「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」がある。これは上杉謙信を持ち上げて、織田信長を貶めているが、どちらも平等に名前を呼ばれている。


落首の多くは当時の教養人の書いていたものであり、単なる落書きではない。当時も名前は他者から認識されるために使われており、絶対のタブーというものではない。時代劇では石田三成が「内府め」、加藤清正が「治部め」と言うシーンがあるが、実際は「家康め」「三成め」と言っていた。


大阪側が意識的に使用したとして、だから家康の言いがかりを理由あるものとするか。そこは見識が問われる。後の江戸時代は蚊がぶんぶん五月蝿いと詠んだら(世の中に蚊ほどうるさきものは無し ぶんぶといふて夜も寝られず)、政権を批判したと目をつけられた。表現の自由にとって暗黒時代であった。権力が「このように解釈できる」と言いがかりをつけることは危険極まりないものである。現代でも権力者が不快感を持つからと言葉を選ぶヒラメ公務員的な忖度社会を是とするか。


後の戊辰戦争は関ヶ原の西軍による徳川への復讐戦のようになった。ここには方広寺鐘銘事件の卑怯な言いがかりへの反感も影響しているだろう。家康は業績の割に人気の低い人物である。そこには方広寺鐘銘事件のマイナスイメージがあるだろう。人々の記憶に卑怯者と刻まれては歴史上の業績も色あせる。


方広寺鐘銘事件の解決策として秀頼の傅役だった片桐且元は秀頼に「秀頼様の駿府と江戸への参勤」「淀殿の江戸詰め」「大坂城からの転封」しかないと言上する。しかし、淀殿らから家康への内通を疑われてしまう。且元暗殺計画があるとも知らされ、一〇月一日に大阪城から茨木城に退去した。これを家康は大阪方の敵対行為と判断して出陣を命じた。


豊臣秀頼はどうにでもなれという投げやりな気持ちで戦を覚悟した。そこには怒りと悲しみからくる反抗心が潜んでいた。声を限りに訴えたいだろう。徳川家康に呪いあれと。


豊臣秀頼は兵糧や浪人を集めだした。兵糧米にするために大坂にあった徳川家や諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。福島正則は、これを黙認している。

秀頼は政長にも命令の使者を出した。

「尼崎代官所の兵粮米を大坂城に運ぶように」

「お断りいたす。政長の家督相続は徳川様のお陰である。恩に報いないならば、我が身は煮えたぎる鍋の中に沈んでしまうだろう」

政長はきっぱりと断った。福島正則とは対照的である。


豊臣方は大阪城で敵が来るのを待っているつもりはなかった。豊臣方の真木島昭光は一〇月二日に出兵し、幕府の堺奉行を攻めた。これに対して片桐且元が救援の兵を出す。茨木城から堺へは尼崎港から船で移動した。片桐勢は堺に上陸したものの、豊臣方に反撃された。家臣の多羅尾半左衛門が戦死し、残った軍は炎の中の大路を逃げ走った。堺の町は炎の絨毯を敷き詰めたようであった。家財の破片が炎の塊になって吹き上がる。


「何故、片桐且元を支援しなかったのか」

「尼崎の守りを優先しました」

この戦いで政長は片桐且元を支援しなかったことを家康から叱責されたが、尼崎の守りを優先したと弁明して許された。


尼崎を徳川方の政長が抑えていたことは重要である。大阪方では真田信繁が京都に攻める畿内制圧案を提言していた。大野治長の消極主義から信繁の案が却下され、籠城案になったという単純な話ではない。尼崎城など大阪城周辺の要地を徳川方に抑えられている状況では畿内制圧案は現実的ではなかった。


大坂冬の陣が大阪城の包囲戦に移ると、政長は池田利隆の幕下で戦った。輝政の死後に姫路藩の家督を継いだ利隆は一門を大事にする人物であった。姫路藩は52万石であったが、利隆の継承時に弟の忠継に播磨国西部の約10万石を譲った。


政長は池田勢の下で木津川口の戦いに参戦した。豊臣方は、大坂城から海に至る要衝である木津川口に砦を築いていた。その砦を陥落させた。


大坂冬の陣は和睦になる。しかし、和睦成立後すぐに徳川方は大砲の製造など戦争準備を進めていた。京都所司代の板倉勝重は慶長二〇年(1615年)三月、大阪方の浪人が乱暴・狼藉していると家康に報告した。これに対して家康は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求し、再び徳川家と豊臣家は対立する。


秀頼は再び兵糧米を集めだした。これに対して幕府は大阪への米の輸送を禁止した。米を換金したければ、尼崎を経由して運んだ先の京都や伏見で行うよう指示した。大阪の経済封鎖により、尼崎の経済的地位が高まった。


大坂夏の陣で大阪城は炎上し、豊臣家は滅亡した。金色の火柱が高く噴き上げ、炸裂の火花を散らした。


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