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豊臣秀頼は寺社造営を進めたい

豊臣秀頼は方広寺再建など秀吉の追善供養を名目として多数の寺社造営を進めた。光重は秀頼に忠誠を誓い、寺社再興の作事奉行として活躍した。山城国の由岐神社の拝殿や摂津国の多田院、大和国の吉野水分神社など、彼が関与した寺社は共通の傾向を持っていた。地盤を石垣で組むという工夫や技術の発揮が、その作事に反映されていた。


秀頼は幼少であり、秀頼自身が寺社造営を発案したものではない。政治の駆け引きや陰謀、大名たちの思惑が交錯した結果であった。

第一に家康黒幕説である。寺社仏閣建造で豊臣家の金銀を枯渇させようとする策略である。この頃の家康は伏見城などの普請を大名に課し、大名の財力を弱めた。しかし、豊臣家に普請を課すことは遠慮していた。その代わりの寺社造営である。

第二に片桐且元ら融和派による無害アピールである。大阪城に蓄積された金銀が軍資金に使われることは大きな脅威になる。金銀をため込み過ぎると戦に備えていると警戒されるため、豊臣家の力を弱めることで江戸幕府の脅威にならないことをアピールしようとした。

第三に大野治長ら強硬派による豊臣家の天下人アピールである。西国大名にも資金を拠出させることで家康の天下普請に対抗して豊臣家にも権威があることをアピールした。また、建設ラッシュによる好景気で豊臣家の人気が京大坂で高まった。寺社造営も軍事とは無関係ではない。光重は地盤を石垣で組む工夫をしたが、これは築城技術でもある。

第三の点は江戸幕府を警戒させることになった。これが方広寺鐘銘事件の卑怯な言いがかりにつながっていく。


慶長一〇年(1605年)四月一六日に家康は秀忠に征夷大将軍職を譲り、天下は徳川家で世襲することを明らかにした。これによって豊臣家と徳川家の緊張が高まり、不穏な空気が流れた。


豊臣家と徳川家の緊張が高まる中、慶長一五年(1610年)に33歳の若さで急死してしまう。豊臣家と徳川家の暗闘がストレスになったのだろうか。翌年の慶長一六年(1611年)には浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正という豊臣恩顧の大名が相次いで亡くなった。徳川家による暗殺との俗説も出るくらいタイミングの良い急死であった。陰謀があったかは別として豊臣恩顧の武将が相次いで鬼籍に入ったことで豊臣家が孤立していったことは確かである。光重の急死も同じ文脈で考えられる。


政長は光重が亡くなった時に僅か八歳であった。このため、豊臣秀頼は建部氏の知行を没収しようとした。豊臣家は親の領地ということで子どもが継承することを必ずしも認めない。秀吉は丹羽長秀から丹羽長重、蒲生氏郷から蒲生秀行の代替わりでは領地を召し上げている。この安定性のなさは、豊臣政権離れの一因である。


政長は池田輝政を通じて徳川家康にとりなしてもらい、無事相続した。徳川家康は池田重利を政長の後見人とした。池田重利は下間頼龍の息子である。政長の母親は、本願寺僧侶・下間頼龍の娘である。


家康には豊臣秀頼の家臣団の弱体化・操り人形化という思惑があっただろうが、政長は家康に感謝しない訳にはいかなくなった。このために、もし豊臣家と徳川家の間に戦が起きた場合は徳川家に味方すると決意した。決意しただけでなく、家康に誓紙を出した。


しかし、摂津尼崎郡代という立場で徳川に味方することは口で言うほど容易ではない。豊臣秀頼の家臣団を抜けて家康に味方しなければならない。郡代は在地にいて、大阪城に詰めている訳ではないため、大阪城に馳せ参じなければ良いものの、在地の人々が自分に従うとは限らない。豊臣贔屓の人々から裏切り者として大阪城に突き出される危険があった。


さらに大阪城は目と鼻の先である。今から振り返れば大阪の陣は篭城戦で終わったが、豊臣家が撃って出る可能性もあった。実際、大阪城に入った浪人衆の真田信繁は畿内の制圧を主張した。そうなれば建部家は真っ先に攻略されるかもしれない。


関が原の合戦では積極的に石田三成に味方するつもりはなく、むしろ徳川家康に味方したかったが、周囲が西軍であったために西軍に味方せざるを得なかった武将は多かった。小早川秀秋が有名である。父の光重も流されるままに西軍に味方したために取り潰されそうになった。


このため、政長は一計を案じた。尼崎近郊の庄屋を呼び集め、「秀頼公からのご命令である」として人質を出すことを求めた。また、母には弟を連れて、親類である池田家に逃げる用意をさせた。人質を集めたお陰で、大阪の陣が始まっても、尼崎で大阪に通じる者はなかった。


政長は拠点を要塞化し、籠城戦に耐えられるようにした。事実上の尼崎城である。多数の櫓や門で固め、城の周囲には寺社を配して事実上の出城とした。城内から濠と川を使って船の出入りができるようにした。その後、尼崎城は、尼崎藩主になった戸田氏鉄によって元和四年(1618年)に大修築されている。


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