建部政長に転生しました
林田左門は処刑される際に白い光に包まれた。気が付いたら真っ白な空間にいた。
「林田左門の人生は終わりました。次は建部政長に転生します。最後の転生になるので、有意義に過ごしてください」
建部政長は林田左門が仕えた建部光重の息子である。慶長八年(1603年)生まれであり、左門が建部家を去った後である。このため、左門と政長は会っていない。とはいえ、前世の林田左門が生きた時代に別人に転生することになる。このようなことはあるのだろうか。
それにしても何故、建部政長なのだろうか。林田隠岐守も林田左門も林田氏である。建部政長は林田と関係あるのだろうか。
政長が生まれた年に徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府が誕生した。
家康が最高権力者としてどの地位に就くかは内部で議論された。本多正信は家康に提案した。
「何? 征夷大将軍だと?」
「はい。そもそも武家政権の始まりである源頼朝公は征夷大将軍でありました。この際、徳川家こそが名実ともに日本の支配者であることを内外に示すために征夷大将軍になることは如何でしょうか」
「ふむう……」
家康は深く考え込んだ。現在の状況や国の将来を思い巡らせながら、正信の提案を吟味していた。しかし、一旦は首を横に振った。
「余にはその資格はない」
「何故でございますか」
「余は天下人ではないからだ」
正信はしばしの間、静かに考え込んだ。家康の言葉には謙虚さが感じられ、その慎重な姿勢に敬意を抱いた。
「しかし、上様は既にこの国をまとめ上げ、平和をもたらしました。その手腕と尽力こそが、征夷大将軍に相応しいものではないでしょうか」
家康は再び考え込んだ。正信の言葉が心に響いていた。
「頼朝公もまた、その地位に就くことで武家政権の基盤を築きました。上様が将軍となれば、新たな時代の幕開けとなることでしょう」
「余はあくまでも源氏長者だ」
家康は深くため息をつきながら言葉を紡いだ。その声は固い決意を示していた。家康は自らの立場を忘れず、謙虚な態度を保ち続けるつもりだった。しかし、時は流れ、情勢は変わっていった。
断固として将軍の地位を固辞する家康の姿勢は多くの者に感銘を与えたが、その一方で彼の指導力と平和への願いはますます広がりを見せていた。人々は家康が築いた平和な時代を愛し、その指導者としての魅力を感じていた。
そしてある日、国中の声が高まり、家康こそが新たな時代の象徴であるという声が広がった。家康はその声に耳を傾け、自らの立場や役割について再び考え始めた。
「時は来たのかもしれんな。」
家康は、いつの間にか将軍になるべき存在になっていた。家康の心には、徳川家が日本の未来に果たすべき使命についての確信が芽生えていた。将軍の地位を受け入れることで、家康は新たな時代の幕開けを告げる存在となることを悟った。
坂上田村麻呂が征夷大将軍になったように征夷大将軍が武家の棟梁であり、源氏の棟梁でなければならないという決まりは存在しない。徳川家康の征夷大将軍就任は源氏の棟梁が征夷大将軍になるという伝説を最大限に利用したものであった。
ここで家康はいつ源氏に改姓したかが問題になる。
第一に永禄九年(一五六六年)の松平氏から徳川氏に変えた時とする。これに対して、この時は関白近衛前久の推挙で行っており、藤原姓徳川氏だったとの反論がある。
第二に豊臣政権下の天正一六年(一五八八年)とする。後陽成天皇の聚楽第行幸に際し、諸大名は秀吉に忠誠を誓う誓詞を出したが、その誓詞に大納言源家康と署名した(笠谷和比古『関ヶ原合戦四百年の謎』新人物往来社、2000年、24頁)。
第三に征夷大将軍に就任する慶長八年(一六〇三年)とする。この説では征夷大将軍に就任するために無理やり源氏にしたとなる。
第二説では家康が豊臣政権下で源氏、武家の棟梁、征夷大将軍を志向したことになる。この天正一六年は備後の鞆にいた足利義昭が上洛して出家した。義昭は織田信長に京都を追放されたが、征夷大将軍を剥奪された訳ではなく、鞆で将軍として活動していた。これを鞆幕府と呼ぶ学説もある。天正一六年の上洛で義昭は名実ともに征夷大将軍でなくなった。このタイミングで家康が源治を名乗ることの意味は大きい。
それを豊臣政権も容認していていたことは豊臣政権の中央集権的性格からすると不思議である。家康は東国諸大名の取次ぎとして室町幕府の鎌倉公方的な立ち位置を認められていたとする(笠谷和比古『関ヶ原合戦四百年の謎』新人物往来社、2000年、26頁)。
逆に、そのような意識があったとすると家康の征夷大将軍就任は豊臣秀頼を天下人と考える人々にとっても既定路線を現実にしたものに過ぎないとなり、それほど驚いたり反発したりする話ではなくなる。
関ヶ原の合戦後を徳川と豊臣の二重公儀体制とする見方が有力である。秀頼を天下人と考える立場も秀頼は幼少であり、家康に執政を委ねた立場である。家康がそれなりの権力を持つことを否定しない。二重公儀体制を前提としても徳川優位の二重公儀体制か豊臣優位の二重公儀体制かの相違がある。それが大阪の陣につながっていく。
徳川秀忠の長女の千姫は慶長八年(一六〇三年)に豊臣秀頼と結婚し、大阪城に入る。大阪城の華やかな宴席には多くの人々が集まり、千姫と秀頼の結婚が祝われた。僅か七歳で豊臣と徳川の政略結婚を担うことに母親の江は心配し、身重の体で大坂の旅に同行した。
「本当に嫁に行ってよいのか」
伏見に到着した江は千姫に優しく問いかけた。彼女は千姫を自分自身の意志で動かすのではなく、千姫自身の幸せを尊重しようとしていた。彼女は子どもの意志や幸せを尊重しようとする親心を持っていた。
「私は父上と母上のお役に立ちとうございます」
千姫は少し緊張しながらも、しっかりと答えた。その言葉に、江の目から涙が零れ落ちた。娘の成長と覚悟を感じると同時に、離れて暮らすことへの寂しさも胸に迫ってきた。千姫はそんな母を見て、微笑みながら言った。
「母上が泣くと、お腹のややも泣きます」
千姫は江を慰めた。幕末の思想家の吉田松陰は「親思う心にまさる親心」と詠んだが、子どもの親を思う心が親心に勝っていた。母と娘の絆は言葉以上に深く、彼女達の心は通じ合っていた。
千姫の心は不安と期待が入り混じっていた。豊臣秀頼との政略結婚の日が近づくにつれ、大勢の人々との出会い、新しい環境への適応に戸惑いを感じていた。しかし、彼女は徳川と豊臣の架け橋になろうと決意していた。
婚礼を待つうちに江は産気づき、秀忠との三女を出産した。その幸せな瞬間に千姫は立ち会った。この三女は姉の初の養女になる。娘の政略結婚の道具にしないという江の決意を反映したものであった。江にとっては娘を政略に使う徳川家康への精一杯の抵抗であるが、子どもの意思を無視している点は家康と同レベルである。




