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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
林田左門に転生して個人主義で剣を極めます
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黒田藩

林田左門は黒田藩(福岡藩)で物頭を命じられた。足軽の頭である。足軽と言うと江戸時代は最下級の武士で、上士から見たら武士とも言えない連中と蔑まれる悲哀のイメージがある。しかし、戦国時代は実働戦力の中心であり、江戸時代初期までは荒くれ者の気風があった。


「大変です。長兵衛ら六人が人を殺ししました」

林田左門に配下の足軽六人が人を殺して出奔したとの報告があった。

「今はどこにいる」

「南の鍋島領に向かって逃げているようです」

それを聞くと林田左門は足軽達を馬で追いかけ、途中で追いついた。とはいえ左門は一人、足軽達は六人である。剣術の達人でも六対一は容易ではない。


左門は静かに馬から下りて言った。

「その方達六人同じく人を殺すといえども必ず罪に軽重があるだろう。六人が皆、同罪ということはない。拙者がここへ来たのはその是非を明らかにしようと思うためである」


左門が足軽達に歩み寄ったところ、最も近くにいた足軽の一人の心は得体の知れない恐怖に包まれた。彼は訳も分からぬまま、刀を抜いて斬りかかった。林田左門は刀に手をかけず、表情を変えず、足も動かさずに「軽率な振舞いをするな」と言った。近くに来ると「無分別者め」と言って抜くや否や斬り伏せた。


「落ち着いて我が言葉を聞け。敵対する故に斬ったのだ。敵対しなければ斬りはせぬ」

ところが、また一人斬りかかってきたため、「馬鹿者め」と言って斬り伏せた。


左門は、わざと後退し、足軽が踏込むところを避け、その後に斬り伏せた。これは足軽達に気を緩めさせ、一度に斬ってかからせないようにした作略であった。このようにして一人ずつ斬っていった。足軽四人を斬り殺し、二人を負傷させた。負傷させたものは帯で縛って連れ帰った。


林田左門の戦い方は、集団に一人で戦うための実践的な戦術であった。斬りあいせず、一太刀で切り殺す点も迅速に複数人を相手し、刀を消耗させないための実践的な方法であった。ところが、武士道が精神論になりつつあった江戸時代には批判も生じることになる。


左門は筆頭家老の栗山大膳(栗山利章)の前でも個人主義を貫いた。元和五年(1619年)のある日、左門と大善が語り合った。二人の前にはミカンが鉢に積まれて置いてあった。この年は福島正則が改易になり、戦国の気風は急速に失われていった。


話が盛り上がった後で林田左門は左手に刀を持ち、右手を畳に付けて言った。

「俺は先に帰る」

「俺も行くから、少し待て。一緒に行こう」


大善は皆から重んじられた有力家臣であったが、林田左門は大善の言葉を無視して、そのまま去った。大膳はミカンを一つ取って言った。

「先に帰るならば、これを投げるよ」

「それは迷惑なことだ」


大膳は左門にミカンを投げつけた。林田左門は身を少しひねり、刀の柄でミカンを払ったところ、ミカンはコロコロと転がった。大膳と林田左門は一緒に笑った。


後に大膳は黒田騒動の中心人物になる。大膳は寛永九年(1632年)に藩主黒田忠之の失政を批判して幕府に訴え出た。幕府の裁定で黒田家は存続、大膳は陸奥盛岡藩南部家に預けられることになる。黒田騒動と伊達騒動、加賀騒動、仙石騒動の中の三つが三大お家騒動である。三大なのに候補が四つある。


左門の下には多くの黒田藩士が刀術を学びにきた。その結果、藩内の他の師範が閑古鳥になった。このために師範達は左門が悪意の企みを謀っているとの悪評を流した。個人主義者の左門は村社会的な馴れ合いを好まない。関係が悪化した左門は福岡を出て豊前国小倉藩の細川家を頼ろうとした。細川家が肥後熊本藩に移るのは寛永九年(1632年)であり、この時点では小倉藩であった。


主家を見限って他家に移ることは戦国時代ならば珍しくない。戦国時代を生きてきた武士には「君、君たらざれば、臣、臣たらず」の意識がある。しかし、江戸時代は許されなくなっていた。先祖代々「お家」に仕える時代になってきた。


左門の脱藩計画は露見し、身柄は菅和泉(菅正利)に預けられた。菅は黒田二十四騎の一人である。関ヶ原の合戦では鉄砲隊を率いて島左近を討ち取った。菅は林田左門の刀脇差を預かり、一間を堅固に囲んで押し込めた。左門と菅は師弟関係で特に親しかったので、預けたという。


左門は一切語らなかった。完全黙秘である。細川に内通して小倉に行くつもりと決めつけられ、左門を牢屋に入れることになった。


既に左門を一間に押し込めているが、牢屋に入れるとなると一苦労である。捕らえ損ね、逃がしてしまったならば外聞が悪い。藩士の中で腕に覚えのある後藤金右衛門と林仁左衛門の二人で捕らえることになった。二人は左門がいる部屋に入り、外から錠を下ろさせた。二人がかりで捕まえようとしたが、左門はするすると逃げる。狭い所を三人で立ち騒いだが、まるで捕まらず、二人は疲労が見えてきた。


左門は「仮にこの二人を殺しても他の奴が来るだけだから、逃げられない。罪作りに科のない者を殺すのも、無益なことだ」と思った。左門は座り、捕らえられた。


左門は二人に語った。

「いつも用心のために、木爪の大楊枝を一本懐中しているが、今再三探っても見当たらん。この楊枝があったら、お前らの命は危うかったろうよ」

その後、着替える時に、その楊枝が出てきた。


左門は宝満山の麓の牢に入れられた。宝満山は福岡の南東にある。全山花崗岩で、修験道の霊峰である。元和七年(1621年)に外から槍で突きさされ、殺害された。林田左門は天下に知られた名高い兵術の名人なので、世の聞こえを憚って密かに殺された。同じ元和七年には徳川家康の側室の茶阿局や織田長益(織田有楽斎)が亡くなっている。


林田左門の剣術は戸田流林田派として残った。備後三次藩の御普請奉行の宮田忠左衛門は戸田流林田派の継承者の一人である。忠左衛門は万治三年(1660年)、三次藩初代藩主の浅野長治に極意を伝授した。長治の娘の阿久里は播磨赤穂藩主浅野長矩の正室である。


文政年間には奥州胆沢郡の医者の藤木道満が戸田流林田派の継承者になった。道満は子分を抱えた義賊であった。子分の一人の「鬼の目」太蔵が飛騨で荒らしており、飛騨郡代の息子の高柳又四郎が追っていた。しかし、又四郎は道満と会い、盗賊の追及を止めて道満に師事する。やがて道満から戸田流林田派の免許を受けた。


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