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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
林田左門に転生して個人主義で剣を極めます
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関ヶ原の合戦

建部寿徳は豊臣秀吉の死後、秀頼に仕えた。完全に隠居しなかったものの政務は息子の光重にシフトしていった。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは光重が兵を率いて出陣した。左門も従軍した。元々、徳川家康の上杉征伐に従軍する予定であったが、準備が間に合わず、そうこうしているうちに石田三成が挙兵して西軍に取り込まれてしまった。


建部光重隊は最初に伏見城の戦いに駆り出された。徳川家が預かっていた伏見城を西軍に奪還する戦いである。攻め手は宇喜多秀家、小早川秀秋、大谷吉継、毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、鍋島勝茂、長束正家ら総勢4万である。伏見城には徳川家康の家臣の鳥居元忠ら2300人が籠城していた。


戦いは慶長五年(1600年)7月18日から始まった。左門も兵を率いて城攻めに加わったが、攻めあぐね、無謀な攻撃を避けた。伏見城の落城は8月1日であった。


伏見城落城後、建部家は毛利秀元を総大将とする伊勢平定軍に属した。長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親ら総勢3万の兵力である。秀元の軍勢は伊賀国から伊勢国に進出した。これに安濃津城主の富田信高が籠城して抵抗した。


信高は上杉征伐に参陣していたが、石田三成が挙兵すると、急いで居城に戻った。信高らは約1700と寡兵であった。しかも、その城兵の八割近くが津町の義勇兵で、町民も籠城して戦った津町の総力戦であった。


安濃津は三重県津市である。伊勢湾に面し、古くから港町として栄えた。津は港という意味である。『廻船式目』の三津七湊の三津は安濃津、博多津、堺津である。これは室町時代に制定された日本最古の海洋法規集である。茅元儀『武備志』日本考の日本三津は伊勢国安濃津、筑前国博多津、薩摩国坊津である。これは明代の兵法書である。


坊津は北宋の禅僧の圜悟克勤えんごこくごんの墨蹟が桐の古筒に入れられて流れ着いた場所である。この由来から、この墨蹟は、この由来から「流れ園悟」と呼ばれる。天下第一の墨蹟と重宝された。後に堺の豪商の谷宗卓と伊達政宗が所有権を争い、古田織部が二分割して分けた。この事実が物件の価値を一層高めた。茶人にとって茶道具は隠すものではない。誰が所有したかという事実も茶道具の来歴を示すものとして重要である。紛争の対象となった事実も茶道具の価値を高めるものになる。


津城は北に安濃川、南に岩田川が流れ、天然の外堀の役目を果たしていた。伊賀から進出した西軍は安濃川を渡ったと思われる。安濃川は三重県津市を流れ、伊勢湾に注ぐ河川である。塔世川とも呼ばれた。


江戸時代になると安濃川と伊勢街道の交わる場所に塔世橋が架けられる。伊勢街道は国道23号になる。塔世橋は第二次世界大戦の津空襲で爆撃被害を受けた。国道23号線を北に進むと津駅の近くに着く。


安濃津城の戦いは8月23日に小競り合い、8月24日朝に本格的な合戦が始まった。毛利勢や長宗我部勢は関ヶ原の合戦では遊兵となったが、安濃津城の戦いでは激しく戦った。吉川広家は関ヶ原の合戦ではサボタージュしたが、安濃津城の戦いでは武人の血が騒いで奮戦した。関ヶ原の合戦だけを見ると吉川家の努力に対して徳川家康は手のひら返しに見えるが、戦争全体を見ると毛利家は十分敵対的であった。


林田左門は激しく攻めた。安濃津城から富田信高が撃って出た。左門は後退しつつ、信高を包囲した。左門の槍が信高に迫ったが、一人の若武者が前に出て自分の槍で左門の槍を払った。そのまま左門と若武者は槍をかわした。その間に信高は退却し、若武者も退却する。


信高は家臣に若武者のような人物がいたかと不思議に思いながら城に戻った。遅れて戻った若武者を見ると、それは信高の妻であった。妻に命を助けられた信高であったが、後に妻の罪で改易されることになる。妻の甥の宇喜多左門は坂崎直盛の家臣を殺害したが、その左門を匿っていた。


城兵は奮戦したが、津の町も城の建造物も大半が焼失した。安濃津城は木食応其の調停により開城となった。それでも西軍を津で足止めした功績は大きい。もし西軍が伊勢を平定したら、尾張に攻め込むことができる。そうなれば関ヶ原で雌雄を決するという家康の構想自体が成り立たなくなった。


関ヶ原の合戦が東軍の勝利に終わると、安濃津城の戦いで抵抗した信高は加増された。開城しながらも西軍足止めが評価された点は京極高次と重なる。戦略目的があっての戦いであり、「生きて虜囚の辱を受けず」の軍国主義ではない。ひたすら根性で頑張る昭和の精神論でもない。後に富田信高は伊予宇和島藩に移封され、津には藤堂高虎が入る。


安濃津城を落とした秀元軍は決戦の地である関ヶ原に向かう。9月7日に南宮山に着陣した。建部光重隊は南宮山の東端、名束正家隊の近くに布陣した。


建部光重の陣に東軍の池田輝政から密使が来た。光重と輝政は縁戚関係にあった。光重の母親は本願寺僧侶・下間頼龍の娘で、池田輝政の養女であった。下間頼龍の妻は輝政の父の池田恒興の養女であった。


密使は光重と左門が対応した。

「左門殿の兵法は当家にも伝わっている。左門殿のような兵法者を抱えられる建部様が羨ましい」

左門は褒められたことよりも、密使の声に心の底からの響きが感じられたことがうれしかった。左門は密使が好人物であると直感的に思った。


密使の話は「この戦は東軍が勝つから積極的に動くな。家康には輝政からとりなす」であった。光重は左門の意見を聞いた。左門は使者の言う通りにすればよいと答えた。建部家は元々、好んで西軍についたのではなく、上方にいたため、西軍につかざるを得なかった。また、西軍は指揮系統が一元化しておらず、東軍が勝つ可能性が高いためである。


9月15日に天下分け目の関ヶ原の合戦になる。建部光重隊の前には東軍の池田輝政隊が布陣した。これはやりにくい。建部光重隊は関ヶ原の合戦を傍観することになる。池田輝政隊も抑えとして布陣しており、積極的に攻める意思はなかった。


南宮山の毛利秀元隊も毛利家先鋒の吉川広家が動かなかったために参戦できなかった。結局、南宮山布陣組は戦争に参加することなく、勝敗が決すると無傷のまま戦場を離脱した。


関ヶ原の合戦後の論功行賞で西軍に与した建部氏は所領を没収された。しかし、義父池田輝政の取り成しで許された。池田氏との関係が建部氏の力になった。ここから建部氏は池田氏の藩屏的な存在になる。


建部氏は取り潰しを免れたが、伏見城や安濃津城で激しく戦った左門は建部氏を出ることになる。あちこちの大名から招かれたが、仕官は長続きしなかった。最後に仕えたところが筑前黒田藩である。


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