林田左門に転生して個人主義で剣を極めます
新章に突入します
林田隠岐守は晩年に再び白い光に包まれた。気が付いたら真っ白な空間にいた。再び頭の中に声が響いた。
「林田隠岐守の人生は終わりました。次は林田左門に転生します」
「転生者が再び転生するのですか」
「そうです」
「何のために」
「林田の輪廻です」
林田隠岐守だった人物は会社員時代の名字も林田であることを思い出した。
「林田左門とは誰ですか」
「安土桃山時代から江戸時代にかけての剣客・兵法者です。剣術はスキルとして与えるから安心してください」
その言葉を最後に真っ白な空間は真っ黒になった。
林田左門(林田内膳)は林田隠岐守の子孫である。林田隠岐守の子孫は何家にも分かれ、左門の家は戦国大名有馬氏の家臣になっていた。左門の父は有馬晴信に仕えていた。有馬氏は島原半島南部の国人から島原半島一帯を支配する戦国大名に成長していた。
隣の佐賀では龍造寺隆信が勢力を拡大していた。隆信は肥前統一の戦いに邁進していた。天正六年(1578年)には有馬領に攻めてきた。その戦争で父は戦死し、晴信は降伏する。晴信は龍造寺に臣従することで命脈を保ったが、左門の家は切り捨てられた。母は実家に戻り、左門は流浪の旅に出る。
目指すは転生時に言われた剣客である。転生時に剣術スキルを与えと言われた通り、剣術の才能があり、有馬家の中ではちょっとした神童扱いになっていた。左門は武者修行の旅を続け、越前国に至る。
越前国で冨田勢源に出会い、師事する。勢源は冨田流の創始者である。この冨田流は後に戸田流と称されることになる。勢源自身は中条流の継承者と位置付けていた。イエス・キリストが自身をキリスト教徒、仏陀が自身を仏教徒と位置付けていないことと重なる。中条流も戸田流も小太刀が有名である。左門も小太刀を得意とした。
左門は勢源に学んだ後、再び武者修行を続けた。左門は剣客同士で慣れあうことはしなかった。今回の転生では前前世の会社員時代の記憶が鮮明に思い出せた。林田隠岐守としての人生を経ており、数十年前の出来事になるのに不思議である。
会社員として仕事はまあ好きであった。昭和的なワーカホリックではないが、消費者に価値を提供するということに面白さを見出した。自分のペースで作業を進められることも良かった。逆に労働者を保護するための労働時間規制を面倒と感じるほどであった。今日は仕事に集中でき、勢いに乗っているから夜中の10時まで仕事をしたいという感覚である。一方で形式的な会議や社内手続き、宴会は苦痛であった。仕事だけやっていたいという感覚である。この個人主義的な意識を今も持っていた。
武者修行を続けた左門は兵法者として名前が知られるようになった。羽柴秀吉配下の建部寿徳に召し抱えられた。山崎の合戦が終わり、秀吉が天下人の階段を駆け上がっている時期で、有能な家臣を増やそうとしていた。建部氏は近江佐々木氏の庶流と称した。家紋は「三ツ蝶」である。
建部寿徳は近江国の戦国大名・六角氏の家臣の家に生まれた。兄が六角氏の家臣に殺害され、その敵を討って出奔した。この敵討ちの功績により、織田信長に召し抱えられた。織田家では中川重政や丹羽長秀といった有力家臣の配下につき、本能寺の変後は羽柴秀吉の配下になった。
兄の敵討ちで名を馳せたとなると豪の者のイメージになるが、そのような単純な話ではない。むしろ、建部寿徳は物資の荷扱いや兵糧・弾薬などロジスティックス(兵站)で活躍した。豊臣政権の奉行衆の立場である。建部寿徳は摂津尼崎郡代として3万石の蔵入地の代官になり、尼崎港を管理した。自己は700石を知行した。
ロジスティックスでの活躍は左門も同じである。兵法者は脳みそ筋肉のような存在ではない。兵法者は家中でも頭脳派の位置づけで、精神論根性論を戒める立場であった。左門を含む家臣が六人ほど集まって雑談したことがある。その中の一人の若侍が兵法を無用する根性論を言い出した。
「兵法は武士の勤めるべき道には相違ないが、これを習わなければ武道が成就しないという限りもあるまい。心が臆していなければ、兵法を知らなくても功名は出来るだろう」
兵法家の左門として聞き捨てならない発言である。前前世の人生でも昭和の精神論根性論を軽蔑し、批判してきた。反論しない訳にはいかない。
「心が剛なる上に兵法が優れていれば鬼に金棒になる」
「心が動かなければ、木刀仕合であっても、負けることはござるまい。仕合を致して見たい」
「それはよい心掛けじゃ、いざまいろう」
「心得た」
根性論者は座を立って庭に飛び下り、庭木に添え木として結びつけた長さ一間ばかりの丸太を引き抜いた。
「これにてお相手をつかまつろう」
左門も座敷を立って縁を見ると、小木刀があったので持ち、庭に下りた。
「大力を振って打ちかかって見られい」
「仰せまでもござらぬ」
根性論者は丸太を振り上げた。左門は小木刀をさげた。根性論者は前進し、力一杯打ち込んで来た。左門は素早く避け、飛びちがいざまに小木刀で若侍の額を打つ。根性論者は呻いた。その額は見る見るうちに腫れ上って来て血もにじみ出してきた。
左門は話しかける。
「まだ納得できなければ、もう一仕合まいろうか」
「いや、もう沢山」
根性論者は丸太を投げ捨ててしまった。
「心だけでは勝てぬだろう」
「如何にも」
根性論者は最初の勢いはどこかに消え、しょげ返っていた。小木刀で丸太に勝つという得物の長さと勝敗が逆転している。小太刀の名手の面目躍如である。左門は兵法を無視して心だけで勝とうとする精神論根性論を批判する。兵法は効率的に勝つという精神論根性論のアンチテーゼである。
根性論者はどこにでもいる。後に左門は黒田藩に仕えることになるが、そこでも同じような出来事があった。むしろ後世には黒田藩の話として知られている。それは藩主の黒田長政の話が追加されているためである。
左門と根性論者の対決の話を聞いた黒田長政は、根性論者を呼び出した。
「その方は、左門と木刀仕合をして負けたということだが、果してその通りか」
「御意の通りでございます」
長政は「若い者にはその位の勇気がなくてはならぬ。左門であろうとも、打ち込んでやろうという勇気は感心なものだ」と称賛した。林田左門は世間に知られた兵法の名人であり、負けたことは恥ではない。その上で、これから左門の弟子となって兵法剣道を学ぶが良いと述べた。
根性論者は長政の有難い言葉に涙をこぼした。すぐに左門のところに行き、子弟の契約をなし、昼夜勉励したところ、剣術の上手になった。




